ケヴィン・ケリーが語る「本と読書と出版」 その6

■アフター・インターネット 「本」はどうなるのだろう

ウェブの引き起こした革命は、ハイパーテキストや人間の知識についてはほんの些細なものだった。革命の中心にあったのは、あたらしい種類の参加の形であり、それはシェアを根本原理とした新しい文化へと発展していった。(『<インターネットの次>に来るもの』 第1章 Becoming)


「本」はどうなるのだろう。ケリーの考察はこうだ。本は固定化の寵児だが、アフター・インターネットの時代の中心命題は、固定化から流動化へ。だから本もネットワーク型になる。もうひとつ、流動化過程の中間生成物として、本はその存在を許されるだろう。

そう考える発想の基点に、ホモファーベル(作る人)のエートスが再起動したという発見と、Wikipediaの編集工程に、ボトムアップ(あたらしい種類の参加の形)だけではない、ある種のトップダウンの知性が働く構造がよくワークしている、という分析がある(この分析は第6章 Sharing に詳しい。なかなか面白い議論だが本稿では省略)。

1.ホモファーベル そして協働する消費者へ

デジタル化でまずツールが変化した。書くためのツール、描くためのツール、写真撮影・編集のツール、動画撮影・編集のツール、作曲のためのツール。

このツールの変化が消費者を変えた。ネット世界で人々はホモファーベル(作る人)の自分を再発見したのだ。だが世紀が変わるころまで、多くの企業幹部はこの変化に気付けなった。

「インターネットというもの」が、以前は受動的な消費者だった人々を活動的なクリーエーターにかえることを想像できなかった。(『<インターネットの次>に来るもの』 第1章 Becoming)

結果、ネット空間には無償世界が、シェアや協力、コラボレーション、集産主義を旗印にする世界が広がっていった。(第6章 Sharingに詳述されている)

先に20年という短い間に馬車から自動車への変化がおきたことを紹介したが、奇妙なことにデジタル化は、馬車の時代のエートスを一部再興させてもいたのだ。

産業革命を経て、大量生産されるものが個人で作られるものより優れている時代にあって、消費者が突然こうして関わりだすのは驚き以外の何ものでもない。「素人が手作りする話は、馬と馬車の時代のような遠い昔に滅んでいる」とわれわれは思っていた。
(略)
参加したいというこの明らかに太古から続く衝動は経済をひっくり返し、ソーシャルネットワークの世界にスマートモブや集合精神(ハイブマインド)、コラボレーションをもたらし、着実に世の中の主流へとなっていった。(『<インターネットの次>に来るもの』 第1章 Becoming)

2、本のネットワーク化

こういった新しいエートスが、人々をして「ハイパーリンクとタグ」を本の各所に施し、本は、ネットワーク(型)となる。また読書はソーシャルになる。

本の中のそれぞれの言葉が相互にリンクされ、クラスター化され、引用され、抽出され、索引を付けられ、分析され、注を加えられ、かつてなかったほど深く文化に織り込まれていく((『<インターネットの次>に来るもの』 第6章 Sharing))

ウィキペディアは最初のネットワーク化した本だ。(略)同様にすべての本もデジタル化していけば、それぞれの文章が他の本の文章とネットワークで相互参照され、リンクを示す青い下線でいっぱいになるだろう。(略)そうなれば本はもはや一冊ごとに綴じられたものではなく、すべての本が織り込まれた巨大なメタレベルの本になり、ユニバーサルな図書館となるだろう。シナプスのように相互につながった図書館が集合知を生み出し、個別の本からは見えない世界を見せてくれるだろう。(強調は筆者)(『<インターネットの次>に来るもの』 第6章 Sharing)

繰り返すが、上記を具体化させる作業は出版社がやるのではない。それではコスト的に破綻する。ホモファーベル(作る人)のエートスが再起動した結果、現実化するのだ。しかもそこにAIが当然のごとく、「参加」してくる。(AIそのものインパクトについては、「第2章 Cognifying 」に詳しい記述がある)

大量のリンクでつながるウィキペディアの成功に支えられ、多くのオタクたちは、何十億人もの読者が一人ひとり古い本にハイパーリンクを張ってくれると信じている。
(中略)
ある単語や文や本を他に明示的にリンクすることに加え、読者はタグ付けすることもできる。スマートなAIを使った検索テクノロジーは、使い古された従来の分類システムを超えて、ユーザーの付けたタグだけできちんと検索できるようになった。実際のところAIは、不休で何百万もの文章とイメージに自動的にタグをつけ続けるので、ユニバーサルな図書館全体で生み出される知恵は、誰もが探すことができる。(『<インターネットの次>に来るもの』 第6章 Sharing)

3.読む人から書く人へ 非対称性の逆転

これまで本に限らず、あらゆる作品には非対称性が存在した。

ハリウッドの大作は100万人時間を動員して、観るのにはたった2時間しかかからない。(『<インターネットの次>に来るもの』 第8章 Remixing )

本は書くより読む方が簡単で、音楽は作曲するより聴く方が簡単で、演劇も観に行く方が演出するより簡単だ (『<インターネットの次>に来るもの』 第8章 Remixing )

この非対称性が逆転した。デジタル化でまずツールが変化し、ネット世界で人々がホモファーベル(作る人)の自分を再発見したのだから、当然の流れではあった。この流れはさらに、一般消費者向けガジェットの開発や、ある種のコミュニティでのトレーニングやネットワーク上の助言などという形でも、この動きを加速させている。

リミックスの分野でも同様のことが生じ、作品の数は幾何級数的に増加の一途だ。

非対称性の逆転が起きる、アフター・インターネットの世界では、膨大な「書く人」のおかげで本も流動化していく。本は「作られたもの」であるより、「目に飛び込んでくる流れ」のひとつとなる。つまり流動化過程の中間生成物として、本はその存在を許されることになるだろう。

 

4.構造としての本

ケリーは、「現在では紙を束ねた本は消滅しつつある」としたうえで、しかし「本の概念的な構造」は残っていく、とする。

「本の概念的な構造」とは、大量の記号が一つのテーマのもとに集まり時間をかけながらある経験を完成させていく、構造のこと。

この構造体としての本は、しかしながら固定化から流動化へのトレンドの中で、「プロセス」として存在していくことになる、とも指摘している。

本はモノとしてではなく、それができるすべてのプロセスだと考えてみよう。名詞ではなく動詞として考えるのだ。本は紙や文章のことではなく、「本になっていく」ものだ。それは<なっていく>のだ。考え、書き、調べ、編集し、書き直し、シェアし、ソーシャル化し、コグニファイし、アンバンドルし、マーケティングしをし、さらにシェアして、スクリーンで読むことの一連の流れとなるーその流れのプロセスのどこかで本が生成されるのだ。(『<インターネットの次>に来るもの』 第4章 Screening)

5.ネットワーク化と構造化の効果

本のネットワーク化と構造としての本が見せてくれる、これまでの「固定化」世界では実現しなかった効果として、ケリーは次の4つをあげたうえで、「本」の核心となる力が可視化されていくだろう、とする。

・ロングテールの深化

「例えば南インドの僧侶のベジタリアンの食事法といった、好きでなくては書けない類の本も、より簡単にみつかるようになる」。デジタルの相互リンクのおかげで。

・過去と現在が隣り合う

「文明が発展する中で書かれてきたオリジナル文書がスキャンされて相互にリンクされているため、われわれの歴史に対する理解を深めることができる。(略)過去がますます現在とリンクし、現在の理解を深め、過去への評価を高めてくれる。」

・権威概念の刷新

われわれが何を知っていて、知らないかが瞬時にしてわかるようになる。

「もしある話題に関して、過去から現在のすべての言語で書かれたあらゆる文書を本当に集めることができれば、我々の文明が、あるいは種としての人間が、何を知っていて何を知らないかのか、より明確に理解できるようになる。」

・プラットフォーム化

本が相互リンクされ、ネットワークの一部となり、ユニバーサル図書館となるにしたがい、いつでもどこでも、「!」と思ったその瞬間に「知」をひきだすことのできる、文化的な生活の「プラットフォーム」となっていく。

このあげく、「本」という固定化された長い形が持つ「力」に新たなスポットがあてられる。それは「attentionの単位」というポイントだ。

われわれは本をビットやある部分といった構成要素にアンバンドルしてそれらを編んでウェブにしていくが、本が持つより高次の力とは、われわれの注意をひくことだーそれこそが、この経済のおいていまでも希少なものだ。本とは注意をひく単位なのだ。事実は興味深く、アイデアも重要だが、唯一人々を楽しませ、忘れられることがないものは物語や素晴らしい論議、それによくできたお話だ。(強調は筆者)(『<インターネットの次>に来るもの』 第4章 Screening)


□ケヴィン・ケリー本との対応

その1:取次の危機/第1章 Becoming
http://society-zero.com/chienotane/archives/7769

その2:クローズとオープンのバランス/第1章 Becoming /第3章 Flowing /第8章 Remixing
http://society-zero.com/chienotane/archives/7781

その3:本は固定化されていたからこそ流動化のための工夫を発達させた、先駆的存在/第2章 Cognifying /第8章 Remixing
http://society-zero.com/chienotane/archives/7795

その4:アフター・グーテンベルク 「本の民」の時代/第4章 Screening
http://society-zero.com/chienotane/archives/7828

その5:そして「スクリーンの民」の時代へ/第4章 Screening
http://society-zero.com/chienotane/archives/7831

その6:アフター・インターネット 「本」はどうなるのだろう/第1章 Becoming  /第2章 Cognifying /第4章 Screening /第6章 Sharing /第8章 Remixing
http://society-zero.com/chienotane/archives/7851

 


(このシリーズは『<インターネットの次>に来るもの(翻訳:服部 桂)』の中でケヴィン・ケリーが「本・読書・出版」について語っている部分をハイライトしている)


その1:取次の危機
http://society-zero.com/chienotane/archives/7769

その2:クローズとオープンのバランス
http://society-zero.com/chienotane/archives/7781

その3:本は固定化されていたからこそ流動化のための工夫を発達させた、先駆的存在
http://society-zero.com/chienotane/archives/7795

その4:アフター・グーテンベルク 「本の民」の時代
http://society-zero.com/chienotane/archives/7828

その5:そして「スクリーンの民」の時代へ
http://society-zero.com/chienotane/archives/7831

その6:アフター・インターネット 「本」はどうなるのだろう
http://society-zero.com/chienotane/archives/7851