1840年 天保11年 アヘン戦争勃発

◎19世紀前半、岐路にあったアジア。そのアジアへアヘン戦争は、列強によるアジア進出への道をひらくこととなってしまった。

■アヘン戦争とは

アヘンの輸入をめぐり発生した、中国と英国との戦争(1840~1842年)。阿片戦争,鴉片戦争の字もあてられる。

アヘン戦争は中国(当時は清朝)社会上層部の腐敗を加速させ、財政をさらに窮地に追い込み、社会不安を増長させ、清朝を内部から崩壊へと導くこととなった事件。また仰ぎ見る大国であったはずの中国の実態を知ってしまったアジア各国の国内で様々な動きが、これを契機に始まる。日本の明治維新への道程もこれらの動きのひとつ。そして西欧列強はアジア各国の動揺に乗じ、植民地化への食指を伸ばし始める、そのきっかけとなったのがアヘン戦争である。

■もっと詳しく

1.背景にあった社会事情(中国)

16世紀以降、ヨーロッパの大航海時代の訪れとともに世界貿易は活発となり「商業の時代」を迎えていた。しかし当初明朝では日本との勘合貿易に代表されるように外国との貿易をに対し朝貢貿易に限定し、沿岸住民の私貿易と海外への出国を原則として禁止する海禁政策をとっていた。だが19世紀初頭に至り、イギリス・インド・中国およびイギリス・アメリカ・中国、このふたつの三角貿易関係によって国際市場に組み込まれていた。

貿易品の中でアヘンは、清朝にとっては雍正帝以来の貿易禁止品目。なぜなら、

・吸煙の害が政治問題化(密輸を含めた大量のアヘンが中国に、2百万人を超えるアヘン吸飲者・中毒者をもたらしたうえ、軍隊内でもアヘン中毒が広がっていた)していたうえ、
・かつて茶や絹などの輸出により外国銀流入超であった貿易収支が、アヘン貿易によって銀の国外流出超に転じてしまい財政上からも問題化していたのだ(※)。
・しかも1796年以来、再三アヘン輸入禁止令を発したにもかかわらず、腐敗しきった官僚機構に阻まれて無効に終わっていたばかりか、むしろアヘン取引は組織腐敗の温床となっていた。

※多額の銀の国外流出(1821年から40年間に最低でも1億ドルに達した)による銀価の騰貴。これは日常生活では銅銭を使用しながら、銀に換算して納税しなければならなかった農民や手工業者にとって、実質的な税負担増を意味し滞納が増加。それが今度は収税低下につながり、清朝の国庫は日を追って減少していた。

 

2.経緯・概要

そこで清朝はアヘン厳禁論者の林則徐を特命全権大臣(欽差大臣)に任命し、貿易の拠点・広州に派遣した。着任した林は英国商人のアヘンを没収、廃棄するなどの強硬策をとり、英国との交易禁止という挙にでた。

これに対し1840年英国は遠征軍を派遣。驚いた清朝は林則徐を罷免し、和解策を試みたが失敗。1842年6月総攻撃を再開した英軍に大敗を喫し、8月南京条約が締結され、ついに清の鎖国政策はくずれた。

 

3.背景にあった社会事情(英国)

18世紀後半以来、スコットランドを中心に産業革命を進めていた英国は清の官許の商人による外国貿易独占体制の打破を目ざし、交渉を重ねるも拒絶され失敗。その間英国国内の新興工業都市では飲茶(紅茶)の風習が広がり、中国茶(紅茶)の輸入が激増した。これに在来の生糸、陶磁器輸入の存在が加わり、こと中国貿易に関しては圧倒的にイギリスの入超で、多額の銀が中国へ流出、問題視されていた。

この打開策としてアヘンに目がつけられた。イギリス・インド・中国およびイギリス・アメリカ・中国、このふたつの三角貿易関係を梃として。

すなわち、アヘン貿易によりイギリス領インド政府は莫大なアヘン税収入を獲得、そしてそれが英国のインド支配をさらに重要視させた。またインドにおけるアヘン収入が、イギリスのインドに対する綿製品輸出の拡大を可能にした。

さらに東インド会社はアヘンによって茶の買付け資金を獲得でき、そのため中国茶の輸入が増加し、それがイギリス本国政府に莫大な茶税収入をもたらした。こうして中国へのアヘン密輸は、濫觴期のイギリス資本主義にとって死命を制する重大事となっていった。

 

4.日本への影響

アヘン戦争における清国の惨敗は、同時代の日本に大きな衝撃を与えた。その結果、欧米事情を研究した『海国図志』をはじめ、アヘン戦争に関する多くの書物が出版された。佐久間象山、吉田松陰、西郷隆盛など、「幕末から明治維新までの動きに影響を与えた人たちはほとんど、『海国図志』の熱心な読者だった」という。

またアヘン戦争の速報は、長崎に来るオランダ船からも得られた。もともと出島のオランダ商館長の幕府への毎年の海外情報報告書(「オランダ風説書」)が存在していたが、アヘン戦争勃発以降幕府は、オランダに対し「オランダ風説書」とは別に詳細な毎年の海外情報報告書「別段風説書」の提出を求め始めたからだ。

これらの情報からアヘン戦争惨敗は、固有の儒教文化を絶対視して欧米文明の長所、とくに兵器、艦船、航海術などの吸収を怠ったこと、アヘン患者の蔓延を許したことに由来すると分析、その轍を踏まぬためにはどうしたらよいのかが盛んに論議されるようになっていった。

たとえば「天保の改革」で知られる水野忠邦は、西洋流の砲術演習の一方、外国船が近づいたら打ち払えと命じていたのをやめて、燃料や水を与えるようにした。


■関連URL
・アヘン戦争 どう伝わったか 朝日新聞 歴史は生きている http://www.asahi.com/international/history/chapter01/01.html
・アヘン戦争 https://www.y-history.net/appendix/wh1303-027.html