ケヴィン・ケリーが語る「本と読書と出版」 その5

■そして「スクリーンの民」の時代へ

スクリーンで読むことは最初に本を変え、本による図書館を変容させ、次には映画を映像を変え、ゲームや教育に破壊的変化をもたらし、最終的にはすべてのものに影響することになる。(第四章 Screening)


「テクノロジーがひとつの文化と時代を終わらせ、次の新しい文化と時代を切り開くことに寄与した」。

それが過去の事実、歴史であれば私たちはそれを受容することができる。ビフォア・グーテンベルクとアフター・グーテンベルクの解説も、なるほどと思うことができる。しかしいままさに、ここでもそうだ、と想定することは意外と難しい。

しかも20世紀、21世紀のテクノロジーの影響力は数十年単位、ときに数年単位で経済社会を変えていく。ビフォア・グーテンベルクからアフター・グーテンベルクへが百年単位のゆっくりした変化であったのと異なるため、「いままさに、ここで」起きている変化を受容することが難しいのだ。

1.20年の変化

20世紀初頭の「物の運搬」の変化は、ほぼ20年で経済社会が大きく変わったひとつの事例だ。

下の写真は1905年、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンのあたりの風景だ。

(日本企業は「礼儀正しく時間を奪う」 https://logmi.jp/243422

馬車が当たり前に走っている、マンハッタンの風景。その20年後、こう変わった。たった20年で。

(日本企業は「礼儀正しく時間を奪う」 https://logmi.jp/243422

馬車から(ガソリン)自動車への変化は20年で起きた。

もっともガソリン自動車のアイデアそのものはもう少し前に出てきていた。1885年にダイムラーによる特許が出されている。また当時はガソリン自動車だけでなく蒸気自動車や電気自動車も、自動車の競争に加わっていた。が、最後に勝利したのはガソリン自動車だった。

横道にそれるが電気自動車は1873年に英国で試作されたのが最初とされ、その11年後に完成したガソリン車よりも実は歴史が古い。

さて20世紀初頭、アメリカ全土で作られる穀物のうちの25パーセントは馬用だった。その相当部分は20年後、失われたのに違いない。馬車を停めていた場所は駐車場に変わり、馬車のメンテナンスをしていた人は車の板金工や整備工になっただろうか。そしてなによりも物流が変わった。自動車は馬より馬力(?)があったので、一度に多くの物を、さらにより早く運ぶことができ、経済成長を加速させていった。

 

2.「スクリーンの民」への過渡期

アメリカで商用インターネットが始まったのは1988年。その後World Wide Webシステムのための最初のサーバとブラウザが開発されたのが1990年。ブログが脚光を浴びたのは、社会不安が一気に高まった2001年の同時多発テロ事件以降。次に2002年から2005年にかけて、友人紹介型のソーシャル・ネットワーキング・サービスが提供され始めた。

そしてネット接続端末、 iPhoneが2007年発表された。

日本でのブログ普及は2003,04年ころ。2007年日本ではYouTubeやニコニコ動画などの動画共有サービスがスタート。00年代後半にはmixi、Facebook、Twitter等が流行し始めて現在に至っている。

われわれは、21世紀初頭、20年の変化の渦中にいる。20世紀初頭の「物の運搬」の変化に対し、「情報の運搬」に関する変化ではあるが。

いまでは、50億を超えるデジタル画面(スクリーン)がわれわれの生活を彩っている。
(中略)
言葉は木のパルプからコンピューターのピクセル、スマートフォン、ラップトップ、ゲーム機、テレビ、掲示板、タブレットへと乗り換わってきた。もはや文字は黒いインクで紙に固定されるものではなく、瞬きする間にガラスの表面に虹のような色で流れるものになる。
(中略)
われわれはいまや、スクリーンの民なのだ。(『<インターネットの次>に来るもの』 第4章 Screening)

3.「スクリーンの民」の時代の経済社会の仕組みはまだ見えない

「本の民」の時代を席巻したエートスについて、ケリーが整理したものはその4で提示した。再録するとこうだ。

・線形的な論理への評価の高まり
・客観性への情熱
・権威への忠誠
・正確性への崇敬

これらが失われる。

では「スクリーンの民」の時代のエートスとは。またそのエートスを背景に経済社会が具体的にどうなっていくのか、そのことについてのコメントはケリーからはない。むしろ、「本の民」から「スクリーンの民」への、現在の過渡期にみられるトレンドについて、12項目に分析した解説本が『<インターネットの次>に来るもの(翻訳:服部 桂)』。ただし、「」の未来については、ある程度具体的な考察がなされており、最後にこれを概観してみよう。

かつて「読む」ことは現代社会が大切にする読み書き能力、理性的思考、科学、公平性、法の規則といったほとんどものを育んできた。それらすべては、スクリーンで読むことでどうなってしまうだろう? 本はどうなるのか?(『<インターネットの次>に来るもの』 第4章 Screening)


(このシリーズは『<インターネットの次>に来るもの(翻訳:服部 桂)』の中でケヴィン・ケリーが「本・読書・出版」について語っている部分をハイライトしている)


その1:取次の危機
http://society-zero.com/chienotane/archives/7769

その2:クローズとオープンのバランス
http://society-zero.com/chienotane/archives/7781

その3:本は固定化されていたからこそ流動化のための工夫を発達させた、先駆的存在
http://society-zero.com/chienotane/archives/7795

その4:アフター・グーテンベルク 「本の民」の時代
http://society-zero.com/chienotane/archives/7828

その5:そして「スクリーンの民」の時代へ
http://society-zero.com/chienotane/archives/7831

その6:アフター・インターネット 「本」はどうなるのだろう
http://society-zero.com/chienotane/archives/7851