鎌倉時代と現代に共通する、温暖化と人口減少

◎鎌倉時代は現代と同じ「温暖化と人口減少」の問題を抱えていた。歴史人口学の観点からは、パラダイムシフトが重要◎

 

■「鎌倉殿の13人」

小栗旬演じる北条義時を主人公にした「鎌倉殿の13人」が、2022年のNHK大河ドラマです。


鎌倉殿の13人:22年大河ドラマ、静岡ロケ公開

北条義時は、源頼朝が開設した鎌倉幕府の第2代執権(在職1205~1224)。姉である北条政子と協力して承久の乱(1221年)を鎮圧し、鎌倉幕府の覇権を全国的なものにしたのが北条義時です。

「鎌倉殿」は、鎌倉幕府の棟梁、将軍のことで、源頼朝が死んだあと、嫡男の頼家が、この跡を継ぎます。

すると頼家の外家である比企能員の勢力が幕府内で台頭し始めました。そこで義時の父・北条時政、姉・北条政子(頼朝の妻)らは頼家がみずから訴訟を裁くのを停め、13人の有力御家人の合議制を導入。この時、義時は時政や能員らとともに13人のメンバーに加えられたのです。

この13人はその後、一人またひとりと失脚、脱落していきます。最初に「鎌倉ノ本体ノ武士」(『愚管抄』)とまで称揚された梶原景時、次が上の比企能員で、時政の謀略で暗殺されます。政敵に濡れ衣を着せ殺害を正当化した後、「調べたら、あれは間違いだった。無実の人を殺したからには責任をとる必要がある」として殺しの実行犯を避けてゆく、この手法を指して、「血塗られた北条氏の歴史」と評した(「周到な時政」『北条氏の時代』より)のは日本中世史を専門とする歴史学者、東京大学史料編纂所の本郷和人教授です。
北条氏の時代

その時代をいかにエンタテインメントとして描写していくのか。脚本家三谷幸喜の辣腕が楽しみです。

「この13人が勢力争いの中で次々と脱落していくなか、最後に残ったのが「北条義時」です。いちばん若かった彼が、最終的に鎌倉幕府を引っ張っていく最高権力者になる。そこまでを、今回のドラマで描いていきたいと思っています。(三谷幸喜)」

「これまで『滅びていく者たちの輝き』を描いてきた三谷さんが、今回は『歴史の勝者』を描きたい、と言っています。しかし、ただの勝者ではありません。勝利の過程で傷つき、多くの人を傷つけた〝苦い勝者〟を描きたい、と」
新大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 三谷幸喜が描く〝苦い勝者〟

 

ところでこの鎌倉時代、実は現代とふたつの共通点があるのを知っているでしょうか。温暖化と人口減少です。

 

■鎌倉時代は、日本史上二回目の人口減少期だった

現代を含めて、日本は大きく4度の人口減少・減退期を体験しています。縄文後・晩期、鎌倉時代、江戸時代中期。このうち、鎌倉時代だけが温暖化の時期と重なっています。

日本の11、12世紀は温暖乾燥の時代でした。世界的にも、過去2000年を通して最も暖かかった「中世温暖期」に当たっています。

中世温暖期

【第一章】人影が消えた!? 鎌倉時代

この時期、気温の上昇によって日照りが続き、旱魃が頻発。広い範囲で飢饉が多発し、多くの人が慢性的な栄養失調の状態になりました。さらに飢饉により衰弱した人々に伝染病がおそいかかり、死亡率の上昇や、出生率の低下を招いたのでした。

鴨長明は『方丈記』の中で、飢饉と疫病が猛威を振るう京の町中に乞食が溢れていたこと、そしてうち捨てられた屍が累々と道を埋める悲惨な状況を描いています。
・養和の飢饉(1181年) 餓鬼草紙

饑饉と飢餓の歴史 |

ただし歴史人口学は、「人口増加と衰退は社会・経済のあり方(「文明システム」)と相互に関係している。(『人口で見る日本史』)」と言います。
人口で見る日本史

つまり温暖化に始まる飢饉、疫病の蔓延を防ぐことができなかった、当時の社会構造や経済状態にこそ、人口動態の真の原因があると考えるのです。社会構造や経済状態が劣化しているときに気候変動が襲うと人口減少に結びつく。文明システムがしっかりしていれば、気候変動で大きな惨事までにはいたらないはずだ、と。

この観点で本郷和人の『武士とはなにか』を読むと、源頼朝から北条義時・泰時・時頼へ、鎌倉幕府の運営者が変遷する過程で、武士が「武門の覇者から為政者へ(第三章の見出し)」と変貌し、律令制を起源とするパラダイムから脱し、撫民の思想に依拠した新しい社会・経済のあり方に踏み出した、としていて興味深いです。
武士とはなにか

源頼朝の鎌倉幕府はまず、「武士の武士による武士のための政権」を樹立することで、「主従制的支配権」を確立した後、北条家の執権政治で次第に「統治権的支配権」をも整備していったのです。

「武士も貴族も大寺社も公平に扱う。そうした方針の下に政治を担当したのは北条泰時で、『御成敗式目』を制定し、評定衆(有力御家人と文筆に秀でた吏僚系の御家人からなる)を組織して合議を重んじた。」

「北条時頼の施政時期に特筆すべきは、幕府の視線がついに「土民」にまで到達したことであろう。地頭のもとで耕作に勤しみ、商業活動にも従事する民くさ。彼らを大切にせよ、と幕府は声を大にする。「撫民」を強調するようになる。」

 

■鎌倉時代は、パラダイムシフトの時代でもあった

そもそも日本は過去三度の人口減少・減退期を体験していますが、いずれもその直前には大きな人口増の波があります。

・狩猟採集のシステムから水稲農耕と律令制による農地の国家管理(公地公民、班田収受)システムへのシフトで、弥生時代の人口約60万人は、奈良時代には500万人となり、平安時代は700万人まで増えました。
(ちなみに現代中国で、土地は、国または農民集団にのみ所有権が認められる。使用権のみが個人や企業よる売買の対象で、使用権設定は国(地方政府)による許可が前提)

ひとつの社会・経済のあり方(「文明システム」)を背景に人口の増加は生じ、逆にその弛緩あるいは崩壊が起こると人口規模を支えることができなくなり、減少へと転じるわけです。

・農業を起点とするシステムでは、農地を広げる努力や灌漑施設などの大規模土木工事が必要で、国の実行意志と運営能力や民の気力が不可欠。ところが平安時代中期から私的な土地所有として荘園が増加することで、公地公民制での「統治」が弱体化、治水設備や田畑の維持が困難になりました。

実は歴史人口学の暗黒時代と言われるのがこの時期なのです。824年を最後に一斉造籍(戸籍調査)は行われなくなりました。ことは「中世」と呼ばれる時代における国家のあり方に関わってきます。

中世にも近代国家の「ようなもの」は存在したかもしれない。けれどもそれは、人々を強力に従属させ得たのだろか? 「否」と応える研究者は、連綿として存在した。(第一章 中世の王権 『武士とはなにか』)

ところで国の外から内を見る契機と「統治」意識・意欲の間には相互の関係がありそうです。

中国大陸では次々に新しい王朝が勃興し、異民族がしきりに侵入してきた。王朝は自らの正当性を積極的に明示する必要があった。その努力を怠っては、易姓革命に根拠をおく簒奪者が続々と出現し、安定的な政権運営などなしえなかったのである。

翻って、わが日本国を見てみよう。894年、周知のように遣唐使が廃止された。(略)朝廷が編纂する歴史書は901年に成立した『日本三大実録』を持って永遠に終了した。

自己を厳しく点検するまなざしを失った朝廷が、直ちに「お上」たる資格を失ったとは思っていない。けれどもこの時期から、朝廷は急速にかつ確実に、全国の統治に消極的になっていく。公地公民の建前は崩壊して荘園が乱立し、諸国の長たる国司は揺任、つまり任地にはもう赴かなくなる。

在地の領主、武士が歴史の担い手となり、新たな「お上」として顕現する条件が整えられていくのだ。
(はじめに 『武士とはなにか』)

鎌倉幕府は、武門の覇者から為政者へ。「武士の武士による武士のための政権」から「お上」へ、撫民の思想へを深化させました。鎌倉時代のパラダイムシフトが室町時代に至り、宋銭の流入を梃子に西国を中心とした商品経済化をすすめ、商品となる農産品が農業生産性を高めることに寄与していきます。

 

■室町時代に、日本は人口増のトレンドへ

鎌倉時代の初期には文字もほとんど読めなかった武士たちでしたが、在地領主となって力をつけ、「撫民」思想を背景に自らの手で治水や新田開発を心がけるようになりました。武士という新たな土地所有者が確立したことで、土地経営に活力が戻って来たのです。貨幣が、商業が、流通が発展し社会は活気にあふれてきました。そして室町時代にいたり、人口が増加に転じます。

文明システム(社会・経済のあり方)がしっかりしていれば、気候変動で大きな惨事までにはいたらないはずという人口歴史学の考えを実証するように、戦国時代の頃でも、戦のために人口が減ったということはありませんでした

戦で死ぬ以上に子を産んだのでしょう。平安時代に700万人あった人口が鎌倉末期に600万人へ減退しましたが、徳川幕府の開かれた1600年ころには、人口は1500万から1600万人に達したのです。

鎌倉時代同様、温暖化と人口減少の中にある私たちの21世紀にもパラダイムシフトが必要なのではないでしょうか。

・日本は四度、人口減を経験している

日本が5000万人国家になるとどうなるか 2053年には1億人を割り込む