人工知能と人工知性

人工知能と「環世界」

前回の投稿、「人間とAIがタッグを組む」で「人間とAIの違いは「制限とバイアス」」にある、と説明しました。

このことをゲーム業界の寵児、三宅陽一郎氏はその新刊、『人工知能と人工知性』で「カメラの眼と人間の眼」という対比で解説しています。そしてその解説を通して、人間の知能の理解、人工知能の制作に、生態学の知見の応用が欠かせないとしています。

三宅氏は長年、デジタルゲームにおける人工知能技術の理論的確立と実際のゲームタイトルへの具体的導入に従事してきましたが、人工知能の構築に哲学が重要であることを訴えていることで知られています。

人工知能は工学(エンジニアリング)であり、科学(サイエンス)であり、哲学(フィロソフィー)なのである。(三宅 陽一郎)

1.無意識と「環世界」

ちょっと考えるとわかりますが、我々は目にしたものをすべて記憶することはできません。また同じ場所、同じ時刻に、同じものをみていても、人によって違うものを見ています。主観的に環境を見ている、解釈しているということですね。

しかも実はこの世界を解釈しているのは無意識の知能なのです。無意識は、環境における身体の状態を常に監視し、そこから得た情報を解釈して意識に渡す役割を果たしています。

人間を含む生物はみんなそうやっています。それも自身の生態的特性に応じた無意識の働きで世界を見ているのです。生態的にとは、生物が身体を持ち、身体を通して環境を認識している、という点を指しています。

たとえば昆虫であれば蜜を吸う花の匂い、蚊であれば血を吸う対象である動物の湿気などに無意識に反応し、昆虫であれば花の蜜のある場所、蚊であれば血を吸う血管の上の皮膚などを「見る」のです。

こうした「制限とバイアス」の中で見られる世界のことを、またその身体性に根ざした、生物が形成する固有世界のことを「環世界」と、エストニア出身のドイツの生物学者・哲学者であるヤーコプ・フォン・ユクスキュルは命名しました。

2.カメラの眼と人間の眼

さて今度はカメラの眼と人間の眼です。

身体性に根ざして、人間が主体的に形成する固有世界を人間の眼が「見る」のに対し、カメラの「見る」は客観的です。カメラはすべての画素の情報を取得します。

人間の眼は主体的な眼です。

眼は人間の内面と深く結びついています。誰かを探すときはほんの小さな気配でも見逃すことはありませんし、見たことのあるものは注視せずともイメージで補完してしまいますし、お腹が空いていると自然に食べ物を探してしまいます。

つまり、視る主体と見られる客体の間には生理学的な関係があります。

一方で、カメラが何かを視る時にはカメラという主体と、カメラが捉える客体の間には関係がありません。カメラは見ているようで世界をみてはいないのです。

つまり、眼は生物にとって基本的な器官で、生物の知能と身体と深く結びついている「能動的」で「主観的」な眼なのです。一方、カメラは使用者の意思に従う「受動的」で「客観的」な目です。(『人工知能と人工知性』知識カード23)

三宅氏はこの他に、言語学のソシュールアフォーダンスギブソン、運動学のベルンシュタインなどを紹介しながら、3D技術のおかげで身体を持つにいたったゲーム・キャラクターの人工知能を構築する様子を、カード型専門書ebook(アイカードブック=iCardbook)という、新しい本のカタチでわかりやすく説明をしてくれているのです。


◆関連URL
・iCardbook|知の旅人に http://society-zero.com/icard/about