コロナ禍の専門書への影響

◎コロナ禍で経済は大きなダメージを受けているようだ。だが産業別にみると、マイナスが強調される産業とはべつにプラスの要素がある産業もある。どうやら出版もプラスの側にあるようだ。

だが、人文・社会関連の専門書出版社の実感、肌感覚はこれと異なる、なぜなのか。少し長いレンジの日本社会の動向も合わせ分析してみた。

1.「社会生活基本調査」には「学習」の項目がある

社会生活基本調査は5年おきに総務省統計局が実施する大規模調査。主たる調査内容は、生活時間調査と生活行動調査。そのうち、自由時間に行った活動(余暇活動)として分類されている5ジャンルの中に「学習」があり、出版事業と関係したデータが得られる。(5ジャンル=スポーツ/学習・研究/趣味・娯楽/社会奉仕/旅行・行楽)

この調査データのうち、昭和61年(1986年)から平成28年(2016年)まではWEBサイトから時系列データが得られる。得られる時系列データで「学習」の変遷を追ってみようと思うのだがまず、これまでの30年間とはどういう時代だったか、リフレッシュメモリー、簡単な素描を試みよう。

●調査年(5年ごと)の素描

1986年 バブル前夜。JAPAN as Number Oneと喧伝され成長率停滞の中にあってなお高度成長の余韻に浸っていられた時期。

1991年 バブルのピークから崩壊へ社会混迷が始まった。後年「失われた10年(あるいは20年)」と呼ばれる時期の始まりの年。

1996年 一進一退の実感無き景気回復の年。そして実は1997年が山一証券廃業に象徴される日本経済社会の蹉跌が強く意識された、日本列島総不況の年(出版市場もピーク、このあと趨勢的低落傾向に)。1996年はその前年に位置する。

2001年 小泉構造改革スタートの年。デフレが進行中で失業率も5%台。

2006年 安倍政権発足。日銀が量的緩和策に着手。

(2007年 リーマンショック)

2011年 3.11の年。

2016年 アベノミクスのセカンドステージ。新3本の矢である「GDP600兆円」・「出生率1.8」・「介護離職ゼロ」による、「一億総活躍社会」が目標として打ち出された。

 

2.1996年から国民総学習の時代へと向かう

山一証券廃業の1997年(平成9年)あたりから新聞TVに「構造改革」の語が頻出し人々の間に、「人生」のイメージが大きく変わった。自分の「人生」がもはや昭和の時代とはまったく異なる軌道になるのではないかとの感覚が広く共有され、社会人には「勉強し直し」、学生には実学、ビジネスに関係しそうな勉強へのニーズが強く意識されたと推測される(「社会生活基本調査」での「学習」には学校における授業また企業研修は含まれない)。「学習」への行動がにわかに増加しているのだ。

この点について、みずほ情報総研は次のようにまとめている。

「かつての大学生、特に文科系の学生は、大学に入学した後にさらに勉強をするという意識は薄かった。少なくとも文科系出身の筆者やその周辺はそうだった。一方、採用する企業も実務は入社してから鍛えればいいという考え方が支配的だったように思う。ところが今日では、企業は即戦力を期待し、学生はTOEICやTOEFLの点数、簿記や情報処理資格といったビジネスに関連する資格を就職活動の武器にしようと考える。こうした変化が行動者率に反映されているのではないだろうか。」
(国民の余暇生活はどう変化したか(3/4) https://www.mizuho-ir.co.jp/publication/report/2020/mhir19_life_03.html

行動者率とは「学習」という行動を起こした人数を総人口(ただしここでは15歳以上総人口)で割った比率。

ちなみに、社会生活基本調査が扱う5ジャンル(スポーツ/学習・研究/趣味・娯楽/社会奉仕/旅行・行楽)の趨勢を、「行動者率(行動者数/15歳以上人口数)」でみると、次のようなトレンドを見せていた。

「学習」が30年の間ほぼ横ばい。ただし1996年からの変化は学生も社会人も学習に精を出しているのがわかる。また「趣味」もほぼ横ばい。

他方、「スポーツ」については若年層の下落が顕著、「行楽・旅行」については全世代で行動者率が下落している。
・4つのジャンルの行動者率の推移(30年間)

(国民の余暇生活はどう変化したか(2/4) https://www.mizuho-ir.co.jp/publication/report/2020/mhir19_life_02.html)

 

3.人々の「学習」意欲が向かった、興味と関心の領域とは

この調査における「学習」対象、学習項目は時代の変化を反映して少しづつ項目を変化させている。そのため厳密な意味で「学習」意欲が向かった興味と関心の変遷を把握するのには障害がある。しかしおおむねそのトレンドを理解することはできるのではないか。

項目の変化とはたとえば「工学・工業関係」が「パソコンな ど の情報処理」に置き変えられたり、他には「人文・社会科学(歴史・政治・経済等)」と「自然科学(数学・物理・生物・農学等)」とが別立てだったものが、「人文・社会・自然科学」に統合されたりなどがある。

さて男女にわけ、学生も社会人も学習に精を出し始める起点となった1996年と直近データが判明する2016年の年齢階層別の行為者率、その増減は下記のようになっている。

男性では「パソコンな ど の情報処理」がどの年代でも大幅増加、他方「人文・社会・自然科学」は減少している。結果、1996年時点で行動者率第1位にあった「人文・社会・自然科学」は第3位に転落した。
・男性の学習対象の変遷

男性の学習対象の変遷

女性では「家政・家事」が学習の第1位のまま推移しているものの、増減では男性と同様の傾向がみられ、「パソコンな ど の情報処理」が俄然学習対象として注目を集めており、結果第3位へと躍進した。
・女性の学習対象の変遷

女性の学習対象の変遷

つまり「人文・社会・自然科学」が学習対象として軽んじられる傾向にあるのは男女共通と言える。

スポーツや旅行を我慢して「学習」へ、という動きの背景に企業の側の「即戦力」意向があることを先にみずほ情報総研の分析として紹介した。ただその学習の対象領域が専門知より実用的知のほうに傾くのは企業組織の行動原理がそうだから、ということになろう。その素地はもっと前から、戦後日本社会の中にあったとするのは小熊氏だ。

社会学者小熊英二氏が『日本社会のしくみ』で、海外先進国の企業が新規採用時に、入社希望者の専門能力と学位を重視するのに対し(=職務に対し人をあてがう)、日本の企業や官庁の人事担当者が「人物」「人柄」を重視する(人に職務をあてがう)傾向が強いことを指摘し、結果、専門知に対する学習が根付かない、根付きにくいキギョウ社会を日本に生みだしたとしています。 (デジタルトランスフォーメーションを果たしつつある「読書」 https://society-zero.com/chienotane/archives/8359

「学習」の過去20年(1996~2016年)の動静が上述の様だとして、さて出版にそれはどう反映されてきたのか、次にそれを眺めよう。

 

4.出版市場全体は「楽しむ読書」のデジタル化で復調の兆し

結論からいうとせっかくの「学習」意欲をうまくビジネス、産業としての出版に取り込めずじまいだった20年だったといえる。さきに書いたように出版市場のピークは1997年でその後2017年まで一貫して市場は縮小の一途をたどってきているからだ。

が、ここ数年、「学習」といった「知る読書」ではなく、「楽しむ読書」のエリアが息を吹き返し、2019年、2020年と前年同期比「増加」といった結果を残している。

理由はコミックのデジタル化戦略の成功にある。(紙は「本体価格×売り部数推計値」の数値、電子は定額読み放題を含む「読者が支払った金額の推計」の数値。)
・コミック誌を含めた紙のコミックの売上げ電子コミックが初めて上回った

(日本の出版統計|全国出版協会・出版科学研究所 https://www.ajpea.or.jp/statistics/

(2019年は)マンガ・コミックス市場での紙と電子の比較で,電子市場が(紙を)初めて上回った結果となりました。

2019年,2020年は『鬼滅の刃』の人気というコミック業界に特殊要因があったとは言え,この数字からわかることは「マンガ・コミックス市場は紙,電子に関わらず復調している」「⁠その上で,電子コミックの占有率が非常に大きく,電子があたりまえの時代に入った」ということです。(コロナ禍が促進したデジタル・オンライン化,そこで見えた電子出版の課題と可能性:新春特別企画|gihyo.jp … 技術評論社 https://gihyo.jp/design/column/newyear/2021/ebook-business-prospect

コミックのデジタル化戦略の成功が出版市場全体の数値について出版不況からの脱出を示唆しうるほどの影響力を放っている。

・「紙+電子」で出版不況は底を打った

(2020年紙+電子出版市場は1兆6168億円で2年連続プラス成長 ~ 出版科学研究所調べ | HON.jp News Blog https://hon.jp/news/1.0/0/30504

 

5.「知る読書」のデジタル化のゆくへ

コミックに代表される「楽しむ読書」、その対象である出版作品で上記情勢があるとしてそれでは「知る読書」、その対象となる出版作品の領域はどうなったのだろう。

実はコロナの影響はここへもプラスの風を吹かせている。

・巣ごもり需要:Amazonや楽天ブックスなどのEC,そして電子出版市場が,実店舗での販売の代わりという機能を発揮、売上を伸ばした。
・テレワークの浸透でコンピュータ書の書籍の需要を押し上げた。
・就業状況先行き不安からスキルアップのための資格本、実用書が売れた。
・オンライン授業を反映して、学参ものが好調。

Web記事にはたとえば次のような記述がある。

<紙本>
(2020年の)紙の出版物推定販売金額は1兆2237億円で、書籍が0.9%減の6661億円(だったものの)3月の臨時休校を受け、学参・児童書が大幅に伸長、年間を通じて好調に推移している。また、文芸書、ビジネス書、コンピュータ書、ゲーム攻略本など、前年を上回ったジャンルが目立つ。(()内筆者)(2020年紙+電子出版市場は1兆6168億円で2年連続プラス成長 ~ 出版科学研究所調べ | HON.jp News Blog https://hon.jp/news/1.0/0/30504

<電子本>
教科書や個人のスキルアップなど,専門書・実用書は,学校の状況の変化(休校要請など)から電子版の需要が高まった1年でもありました。(コロナ禍が促進したデジタル・オンライン化,そこで見えた電子出版の課題と可能性:新春特別企画|gihyo.jp … 技術評論社 https://gihyo.jp/design/column/newyear/2021/ebook-business-prospect

つまり「社会生活基本調査」でわかった20年来のトレンドがコロナ禍を起点としたデジタル化加速でより強化されたとみていいのだろう。入門書、啓蒙書、実用書ばかりか専門書についても、それがコンピュータや(人工知能、機械学習含めた)IT、またその周辺を議論しておれば紙本、電子本両方に好影響があったようだ。

裏を返すと、「社会生活基本調査」における「人文・社会科学(歴史・政治・経済等)」や「自然科学(数学・物理・生物・農学等)」を対象とする専門書はまたしてもビジネス浮揚の好機を逸してしまったのかもしれない。

非IT領域の専門書に未来はあるか。

次回、その可能性のヒントについて考えてみよう。

 


■関連URL

・コロナ禍の中で「読書」、メディア、出版産業の危機は深まるか https://society-zero.com/chienotane/archives/8579

・コロナ禍が促進したデジタル・オンライン化,そこで見えた電子出版の課題と可能性:新春特別企画|gihyo.jp … 技術評論社 https://gihyo.jp/design/column/newyear/2021/ebook-business-prospect

・2020年紙+電子出版市場は1兆6168億円で2年連続プラス成長 ~ 出版科学研究所調べ | HON.jp News Blog https://hon.jp/news/1.0/0/30504

・みずほ情報総研 : 国民の余暇生活はどう変化したか(1/4) https://www.mizuho-ir.co.jp/publication/report/2020/mhir19_life_01.html