複式簿記|11月20日は近代資本主義の濫觴の記念日

11月20日は現在世界を覆っている近代資本主義の奔流、その最初の一滴が流れ始めた記念すべき日です。1494年11月20日、イタリアはヴェネチアで『スムマ』と呼ばれる数学書が刊行されました。

17世紀の科学革命の前にまず数量化革命があったとする、アルフレッド・W・クロスビーは主著『数量化革命』の中で,1494 年にイタリアの数学者ルカ・パチョーリが複式簿記をまとめ、『スムマ』として刊行したことが,西欧の世界史への巨大な台頭を促したと説明しています。

そもそも西暦でいう紀元後の2千年の時間の中で、その四分の三はユーラシアの時代でした。それが今日の西欧の価値観で彩られる「世界」になったのは、ルネサンスを経たのち、ユーラシアの最西部の辺境の地、スコットランドに科学革命、そして産業革命が起きて以降のことです。

その端緒となったできごと、それが15世紀の『スムマ』の刊行だったというわけです。ルカ・パチョーリはいまでは、「近代会計学の父」と言われています。

 

1.レオナルド・ダ・ヴィンチも読んでいた『スムマ』

この本の中で初めて複式簿記が体系だった形でまとめられました。簿記の体系は少しづつ工夫、精緻化されてゆきましたが、それをはじめてまとめた本、そのタイトル、フルネームは『算術・幾何・比及び比例全書』。原題は"Summade Arithmetica, Geometria, Proportioniet Proportionalita"で、集大成という意味の最初の単語から、「スムマ」と呼びならわされています。全体は600ページに及ぶ大著で高価でもあったのですが、ラテン語ではなく、イタリア語で書かれていたことも手伝って、当時のロングセラー本となったのでした。

実は簿記論は600ページの中の27ぺージだけ、約2万4千文字の著述。第1部第9編に簿記論として立項されており、ルネサンス当時のヴェネツィア式簿記(複式簿記)が解説されていました。財産目録の作成、日記帳、仕訳帳、あらゆる元帳、勘定の取り扱い、さらには決算など簿記にかかわる知識と理論が詳細に、たとえ話なども織り交ぜながら展開されていました。

その簿記論の部分が、各国語に翻訳されて普及し、複式簿記の知識がヨーロッパ中に広まりました。グーテンベルグが活版印刷を実用化したのが1450年代。といってもそれはドイツの都市マインツでの出来事。最初のうちは本の印刷注文などはなく、ラテン語の文法書や聖書などを細々と印刷していました(「卵と鶏」論で本を読む習慣がまだなかった)。他方イタリア北部はこのころ商業が隆盛となり、学校も発達し、ある程度豊かな商人なら誰でも文字を読むことができました。商売に関する本なら売れると、印刷業の将来性、成長性に目を付けたのがヴェネツィア商人たちで、『スムマ』は当時西洋の一大出版業地域となっていたヴェネチアで刊行されたのです。

このとき、ヴェネチアにはレオナルド・ダ・ヴィンチがいました。

彼のノートのTo Doリストに「ルカ先生から平方根を習うこと」と書いてあったことがわかっています。

レオナルド・ダ・ヴィンチも『スムマ』を読んでいたのです。そして『最簿の晩餐』を描くのに『スムマ』、『算術・幾何・比及び比例全書』の著者であるルカ・パチョーリに教えを請いたいと考えたのでした。実際ふたりはミラノのスフォルツァ家の食客となり、幾何学的立体図形に関する研究を行いました。もちろん、ルカ先生からの遠近法などの教示により、『最後の晩餐』は1498年めでたく完成しました。

 

2.複式簿記と資本主義

しかしそうはいっても、にわかには信じられない、という人も多いでしょう。日本社会で会計をきちんと勉強している社会人、複式簿記の重要性を分かっている人は少数派かもしれません。

それでも複式簿記こそが実は資本主義の根幹なのです。

複式簿記を「人間の精神が産んだ最高の発明の一つだ」と言ったのはゲーテです。

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、1796年ゲーテが著わした教養小説の古典的な作品の中に、こういう一節があります。

「商売をやってゆくのに、広い視野をあたえてくれるのは、複式簿記による整理だ。整理されていればいつでも全体が見渡される。細かしいことでまごまごする必要がなくなる。複式簿記が商人にあたえてくれる利益は計り知れないほどだ。人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね。立派な経営者は誰でも、経営に複式簿記を取り入れるべきなんだ。」

 

「資本主義の発達に対する複式簿記の意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。」

これはドイツの社会・経済学者、ヴェルナー・ゾンバルトの指摘。

「複式簿記のない資本主義など考えられない。両者は形式(Form)と内容(lnhalt)のごとく相互に堅く結合している」と述べています。(複式簿記の言語性 と資本主義 https://stars.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=361&file_id=22&file_no=1)

もっとも会計知識が社会の隅々にまで浸透していないのは日本ばかりではないようで、20世紀の大経済学者ヨーゼフ・シュンペーターも、経済学者が会計に注意を払わないことを嘆いています。しかし、それでも遺稿を元に1954年刊行された『経済分析の歴史』で、「会計慣行の歴史的理解なくして有効な経済理論を打ち立てることはできない」とまで書いているのです。

他にもアダム・スミス、カール・マルクスらも会計の重要性を力説しています。

 

3.国家の繁栄は会計によって決まる

会計と歴史、双方の知見を持つジェイコブ・ソールによって手掛けられた『帳簿の世界史』は、国家の繁栄が会計によって決まることを、成功事例と失敗事例を並べることにより証明しようとした本です。

たとえばビッグデータの今の時代、データの保有者こそ王者です。GAFAの巨大な力に対抗すべく、最近孫正義氏のソフトバンクグループの一社Yahoo!Japanが韓国のLINEと手を結ぼうとしています。実は、帳簿という最も古典的なデータこそ、いまでいうログ情報だったのです。その重要性は測りしれません。現代のアクセスログやライフログに相当するパワーを誇ったのが、会計データだった、といってもいいでしょう。

複式簿記は、どの取引が成功しているか失敗しているか、全体の収支や損益を、そして資本が成長・増大しているのかどうかを表現します。

そこからの情報をもとに企業集団グループの経営をうまくやりおおせたのが、フィレンツェ屈指の名家として知られる15世紀のメディチ家。当時の当主、コジモ・デ・メディチは政争の絶えないイタリアのフィレンツェ(共和国)にあって、「できるかぎり目立たぬように振る舞い、嫉妬や羨望を招かないように」との処世訓を守りこの世を去りましたが、一時フィレンツェに納められた税金のおよそ65%を負担していたほどでした。

その繁栄の背景には簿記と会計がありました。コジモは、メディチ銀行のローマ支店で、会計の実務を体験していました。それで当主コジモ自身が自分で帳簿をつけていました。しかも、同じページに借方と貸方を記入する簡単な複式簿記を行っていたのです。

またたとえば、「朕は国家なり」とのせりふで有名な、フランスのルイ14世も簿記と会計に精通していました。

ルイ14世が即位した当時のフランスは財政破綻状態でした。そこで財政再建すべく会計士コルベールを採用したのですが、コルベールはルイ14世と共に会計改革に乗り出します。財政再建の手腕はアダム・スミスも賞賛しています。

彼はまず、ルイ14世に会計の基礎を教え、フランスの決算書を単式簿記から複式簿記へ変更し、会計監査制度の立ち上げました。さらに国王に帳簿をいつでも見せられるように整理し、ルイ14世専用のポケットサイズの帳簿まで作ったのです。

しかし、このメディチ家の話しにも、ルイ14世の話しにも、続きがあります。

 

4.会計の腐敗は国家の破綻につながる

中国やイスラム圏に比べ経済的に遅れた地域だったユーラシアの最西部の辺境の地、スコットランドに、近代的資本主義が生まれたのはなぜか、という問いを通じて西洋と近代の本質論を展開するのがマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。

この問いへの彼の回答は、カトリックに対抗して16世紀に出てきた「プロテスタントの厳格な倫理的生活態度に、資本主義の精神の源泉がある」でした。同じくマックス・ウェーバーの別の著作、『一般社会経済史要論』には、会計は職業倫理の基本要素の一つという趣旨の解説があります。つまり、簿記という地道な作業をコツコツこなす生活態度、倫理観が複式簿記には不可欠なのです。

ルネサンスの立役者となるほどの財を築いたメディチ家でしたが、自身が自分で帳簿をつけていたコジモの子供に、もうそういう習慣はありませんでした。孫の代になると、メディチ家に帳場はなかったのかもしれません。

レオナルド・ダ・ヴィンチが故郷フィレンツェに戻ったのと相前後して、メディチ銀行のロンドン・ブリュージ支店の英国エドワード3世向け貸付が踏み倒され、それがまた巨額であったことから、銀行全体が破綻してしまいました。これはメディチ家没落の始まりとなりました。

もうひとつ、ルイ14世が大事にしていたポケットサイズの帳簿。かれは後年、それを疎ましく思うようになりました。なぜなら複式簿記は、どの取引が成功しているか失敗しているか、全体の収支や損益を、そして資本が成長・増大しているのかどうかを表現するツールだからです。

「宮殿の建設にカネがかかりすぎている」「オランダとの戦争で国庫が空になりそうだ」といったコルベールからの数字のエビデンス付きの諫言に、だんだん嫌気がさしてしまったのです。帳簿は組織のトップの失敗を、はっきりと表す存在でもあるのです。

そのためコルベールが死去すると、ルイ14世は会計の中央管理をやめてしまいました。その後国家の財産は浪費され、コルベールの死からおよそ30年ののち、ルイ14世が死の床についたときにはフランス国家財政は破綻していました。そしてこのことがフランス革命の遠因ともなっていったのです。