『世界インフレの謎』が説く3つの行動変容

著者の渡辺努(東京大学大学院経済学研究科教授・前経済学部長)氏は、物価と金融政策を専門としている。しかし近時の行動経済学の手法を取り入れている点で、最近注目を浴びている。日本銀行、一橋大学教授を経て、現職。ゼミの学生にも起業を勧め、政府に対しては「起業支援より、失敗しても巻き返せる仕組みが必要」と迫る、いま旬な経済学者。

 


1 消費者の行動変容(サービス消費からモノ消費への揺り戻し)
2 労働者の行動変容(従来型の「働き方」から脱出)
3 企業経営者の変容(グローバル供給網の見直し)


 

■消費者の行動変容とは

通常、人々の経済行動は「同期しない」。十人十色、捨てる神あれば拾う神あり。誰かがある行動をとれば、それとは逆の別行動を誰かがとる。これによって経済は全体として安定する。ブラック・マンデー(1987年)や「暗黒の木曜日(1929年)」のような個々人の売りが完全に同期すような事態はむしろ稀だ。

ところが、このたびのコロナ禍では、この稀な「同期」が起きた。「密」を避けるために。

この結果起きたのが、サービス消費からモノ消費への揺り戻し。

「新型コロナウイルスによるバンデミックが始まった当初、人との接触が不可避なサービス消費から消費者がいっせいに遠ざかりました。レストランや宿泊施設、商業施設、理髪店、フィットネスクラブといったる施設から人が消えるという現象が世界中のあちこちで起きました。」

・サービス消費が戻らない米国:消費者の行動変容

最もシンプルな(?)米国経済の説明方法

しかもサービス価格はモノ価格より硬直性が高い。原価に占める人件費(賃金)の割合が、モノよりサービスの方が高いから。

「需要シフトにともなってサービス価格は本来下がるべきなのですが、サービスのほうが価格は硬的だという事実を踏まえると、硬直的なので下がりが鈍いということになります。一方、モノ価格は本来上がるべきですが、硬直性が低い(つまり価格が伸縮的)ので迅速に上がります。上がる方はしっかりとあがり、下がるほうはさほど下がらないので、全体として物価が上昇する。こうして米欧のインフレは引き起こされているのです」

 

■労働者の行動変容とは

また消費者は同時に労働者だが、職場も「密」だ。ウイルスへの恐怖心が広がったことや、テレワークの経験から、アメリカに「大退職時代」が到来。「FIRE」という選択肢が広がった。「FIRE」は「Financial Independence, Retire Early」の頭文字をとった言葉。次のような種類がある。

Fat FIRE(ファット・ファイア)
資産収入(不労所得)のみで生活できる理想的なFIRE。達成には十分な資産が必要。
・Lean FIRE(リーン・ファイア)
資産収入(不労所得)のみで生活するが、アスリート並みの倹約努力が必要。
・Coast FIRE(コースト・ファイア)
資産収入(不労所得)のみで生活できるが、趣味として片手間に仕事をするストレスフリーなライフスタイル。社会と関わっていきたい人向け。
・Barista FIRE(バリスタ・ファイア)
資産収入(不労所得)+労働収入で生活するセミリタイア的なFIRE。サイドFIREともいう。必要な資産が少ないのでハードルが低い。通常なら週5日働くところを3日勤務にしてみたり、8時間勤務のところを3時間勤務にしてみたりするイメージ。
アメリカに「大退職時代」が到来。日本はどうなる? より)

・アメリカに「大退職時代」到来:労働者の行動変容

アメリカに「大退職時代」到来 原因はコロナ疲れと仕事への価値観変化?

こうなると人手が足りないのでモノやサービスの生産が十分にできず、供給不足におちいり、インフレになる道理だ。

 

■企業経営者の変容とは

たとえばiPhone。この情報端末は、製品企画を米国のアップル社が行い、部品はおもに日本と韓国、米国の企業が担当。そのうえで部品を集めて組み立てる作業は台湾と中国の企業が行っている。それは単なる分業ではない。高度な精度と納期のコントロールが不可欠なグローバルな供給網で、「サプライチェーン」と呼びならわされる。

コロナ禍はここにも襲いかかり、その瓦解にウクライナ侵攻がとどめをさした。

サプラチェーンは再構築が避けられない、しかも決済や基本通貨のグループ化を伴った再編が必須、かつそれは不可逆的だろう。ウクライナ侵攻が「中立パーワー」を登場させたからだ。

・米西欧、中露、そして中立パワー

そして3極に割れた世界 協調嫌がる「中立パワー」台頭: 日本経済新聞

そして脱グローバリゼーションの単語の登場はコロナ禍よりも前、実は2008年のリーマンショックからの動きでもあった。「従来型の「働き方」からの脱出」もしかりだ。

・2008年に反転したグローバル化トレンド(世界の貿易額対GDP比推移):企業の行動変容

超グローバル化期は終わった

さて上でみてきたとおり、足下のインフレは供給面に原因が存する。他方従来の経済学が用意してきたのは需要面への処方箋だった。渡辺努氏が足下のインフレを、「謎」とするのは、この理由による。そして日本は、これまで物価も賃金も上げてこなかった、という他国とは異なるファクターが重なっていて、謎解きはさらに困難を伴いそうで、やっかいだ。