■ヒトが病原体を「感染症」の犯人にした

中学三年生の「保健」と感染症生態学

今年度の学習指導要領に、中学三年生の「保健体育」で、「感染症の予防(新型コロナウイルス感染症)」が新たに単元として追加されています。
・「感染症の予防(新型コロナウイルス感染症)」

その中で、「単元の評価基準」のひとつとして、

A:感染症は,病原体が環境を通じて主体へ感染することで起こる疾病であり,
B:適切な対策を講ずることにより感染のリスクを軽減すること,また,
C:自然環境,社会環境,主体の抵抗力や栄養状態などの条件が相互に複雑に関係する中で,病原体が身体に侵入し発病すること

について,「理解したことを言ったり書いたりしている」かをあげています。
(「改訂『生きる力』を育む中学校保健教育の手引」追補版 https://www.mext.go.jp/content/2020430-mext_kenshoku-000006975_2.pdf

Aは感染のメカニズム、Bは感染症対応策ですね。

ところで普段、新聞やテレビなどで話題になっていることの中でCが、意外と見落とされているかもしれません。

Cは言ってみれば、感染症の生態学といってもいいようなジャンルになります。かみ砕くと、人間と感染症病原体との相互作用の中で、社会問題としての「感染(特に爆発的感染)」が生じる、ということです。

つまり人間の行動様式、社会的行動の変化、人間集団が置かれている自然や社会のあり方と公衆衛生の状況、それが病原体の生存戦略と相互に影響しあって、「感染」が社会化していきます。実は人間が病原体を「感染」の犯人に仕立て上げたのだ、という病原体側の視点、言い分があるのかもしれないのです。

相互に影響を与え合うのですから、Cの延長線上には、逆に感染(という社会現象)が人間社会を変えたという視点もありえ、これも大事ですが、そこまでは中学過程では教えないようです。

 

ヒトが病原体を「感染症」の犯人にした

現代における三大感染症はエイズ・結核・マラリアです。しかし歴史的にはペスト・コレラ・インフルエンザということになります。
・三大感染症:エイズ/結核/マラリア

(外務省: わかる!国際情勢 Vol.4 三大感染症対策~日本の取組と世界基金 https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol4/index.html

・ペスト/コレラ/インフルエンザ(ドイツ語: Pest, 英語: plague、Cholera,
Flu)

(新型コロナの犠牲者数を図解し、過去のパンデミックと比較してみたら、逆境の歴史が垣間見れた|FINDERS https://finders.me/articles.php?id=1793

さて私たちは進歩史観に逃れようもなく思考を縛られています。大昔の人間、先史時代の人類は不衛生な暗い洞窟か何かで、医者も医学知識もなく病気を恐れながら生活を送っていた、というイメージがあるとすれば、それは大間違いだということが、様々な領域の研究者の成果としてわかってきています。

狩猟採集を生活の基本としていた先史時代の人類は、10数人程度の集団を単位に活動をし、また拠点を移動する生活様式で暮らしていたのでした。

感染症は、「移る」からこわい病気です。宿主がヒト以外の場合であってもヒトからヒトへ「移る」のが、「感染爆発」の導線となる。ということは、集団のサイズが小さく、集団間の距離が遠いと、仮に誰かが感染症にかかることがあっても、流行を維持できない。「感染爆発」に至らない、ということになります。

感染爆発とは無縁の生活史を狩猟採集時代の私たちの祖先は送っていました。

加えて、たとえばガンの原因のとなる化学物質への接触機会もなければ、運動不足による生活習慣病もほとんどなかったでしょう。

先史時代の人類の成人期の健康状態は、疾病の種類も少なく、比較的良好な健康を維持していたと考えられています。

問題は。

数万年前の「定住革命」に始まったのです。定住を背景とした、農耕や野生動物の家畜化。人類が感染症と共にその歴史を形作らざるを得なくなったのは、定住、集住、都市化、そして農業と牧畜を軸にした生活様式を定着させたがゆえでありました。

定住はまず、寄生虫疾患を増加させました。糞便から排泄された寄生虫の卵が土の中で孵化、成長し、皮膚から感染する、たとえば鉤虫病。同様に経口摂取で起きる回虫病。これらは人々が集住することで、さらには糞便が肥料として使われることで、寄生虫の感染環を構築し、広まりました。

しかしながら感染環を作ったのはヒトです。ヒトの、ある固有の生活様式の定着により感染環ができたのでした。

また野生動物の家畜化により、動物に由来するウイルス感染症がヒト社会に持ち込まれることになりました。天然痘は牛、麻疹は犬、インフルエンザは鳥類です。

農業による人口拡大に成功した地域(たとえば大河流域に発生した四大文明、都市・階級・文字・国家を生んだエジプト、メソポタミア、インダス、黄河各流域)では、ヒトがこの家畜由来の病原体に対して、成長増殖の「場」を提供したことになります。専門用語では、病原体が新たな「生態学的地位」を獲得した、という表現を使います。

しかしこのヒトが与える成長増殖の「場」も変化していきます。私たちが生活様式や社会の在り様を変えていくからです。

この結果、農地と農業主体の産業構造、社会の在り方であった時代にはペスト/コレラ/インフルエンザが、そこから大航海時代そして産業革命を体験し、都市と工業主体の産業構造、社会の在り方となった時代には結核/マラリア、さらに21世紀には新興感染症としてエイズが注目されてきました。

ヒトが変わると、つまり生活様式や社会の在り様を変えていくと、感染症の主たる犯人も変わっていく道理だということです。

 

withコロナはwithクルマの相似形

そもそも病原体である細菌もウイルスも、人類の登場よりはるか昔からこの地球上に存在していました。

あとからやってきたのが人間です。私たちの祖先です。細菌やウイルスの前に人間が、それも大きな集団で、そのうえ稠密な生活様式を伴ってやってきたとき、人間の側が「感染症」と「感染爆発」を忌まわしきものと言いつのり、ヒトが病原体を「感染症」の犯人にしたてあげたのでした。

人間が「10数人程度の集団を単位に活動をし、また拠点を移動する生活様式」に戻る決断をするならば、感染症問題は解決します。

でも、それはできない。

これはちょうど、自動車を私たちが生活から手放せないのに似ているかもしれません。WHO(新型コロナで最近よく目にするようになったアルファベット列です)は「交通安全の世界状況報告2018版(Global Status Report on Road Safety2018)」で、2016年には135万人が交通事故で亡くなっているとし、「統計的には23秒に1人が路上で命を落としていることにな」ると、安全対策の向上を訴えています。

withコロナとは、withクルマと同じような地平で考えられる問題群のひとつかもしれません。ただし、ステージはまったく異なります。なぜなら、治療方法、治療薬、ワクチンなど感染症対応のイロハについて、確たるものを私たちはまだなにも手にしてはいないからです。

withクルマについては、対応策である程度はっきり了解されたもの(道交法や路上の安全装備さらにはシートベルト着用など)があり、またその改善(たとえば自動運転技術の開発)も引き続き行われています。

国内に限ってみると、2019年は人口10万人あたりの死亡者数は2.54人と過去最少。10万人あたりの死亡者数が最も多かった1970年(16.33人)の約6分の1以下にまで改善させています
・自動車事故数と死者数の推移

(交通事故死、過去最少の3215人 : 安全装置の普及も奏功 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00625/

 

with感染症の小史

新型コロナは現在進行形の新興感染症です。ただ感染症一般に関してならば、ペストが世界的流行の第二波をもたらした14世紀以降さまざまな工夫がとられるようになりました。特筆すべきは、イタリアで確立された「公衆衛生」のための組織作りです。北部イタリアの大都市では公衆衛生局が設立され、15、16世紀に小さな都市や村にまで衛生部が設立され、中央衛生局の厳しい管理にしたがうようになりました。

「感染症」のうち、「感染」とその阻止に特化した防御組織とその構想が「公衆衛生」です。

19世紀になると「公衆衛生」の発想にサイエンスが取り入れられます。統計学と地図上への感染症例の配置を分析道具にした「疫学」が誕生したのです。「疫学」は感染症が広がる原因、理由、メカニズムを明らかにしますが、「疫学の父」と言われるのがジョン・スノーという医師です。

彼は1849年のコレラの流行に対応して1850年5月に結成されたロンドン疫学会の創設メンバーとなり、調査に乗り出しました。その調査結果は最初あまり見向きもされなかったのですが、二度目のコレラ流行時、自身が確立した調査モデルでひとつの井戸が経口感染の大本だと突き止め、当該地区の委員会に乗り込み説得、井戸封鎖を実現、感染症防御に成功しました。
・スノーのマッピング

(Ecological Study | 大阪大学腎臓内科 http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/kid/clinicaljournalclub5.html

他方、「感染症」のうち、「」に深いメスを入れらるようになったのはこれも近代、自然科学の発達があってからのことになります。ロベルト・コッホは1883年コレラ菌を発見。さらに感染症の病原体を証明するための基本指針となるコッホの原則を提唱し、「近代細菌学の開祖」と言われています。

いずれにせよ、新型コロナの日々のニュースに一喜一憂するばかりでなく、中学三年生の「保健」で教わる「C:感染症生態学的視点」について知ることも大事でしょう。

実は人間が病原体を「感染」の犯人に仕立て上げたのだ、という病原体側の視点、言い分にも耳を傾けてみてはどうでしょうか。

 


■関連URL

●Q10.通常の季節性インフルエンザでは、感染者数と死亡者数はどのくらいですか。 https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/02.html#100
「インフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人」。

●新型コロナの犠牲者数を図解し、過去のパンデミックと比較してみたら、逆境の歴史が垣間見れた|FINDERS https://finders.me/articles.php?id=1793
・パンデミック死者数:
1位 ペスト・黒死病(死者数2億人・1347年〜1351年)
2位 天然痘(死者数5600万人・1520年)
3位 スペインかぜ(死者数4000万人〜5000万人・1918年〜1919年)
4位 ペスト・東ローマ帝国での流行(死者数3000万人〜5000万人・541年〜542年)
5位 エイズ(死者数2500万人〜3500万人・1981年〜現在)
6位 ペスト・19世紀の中国とインドで流行(死者数1200万人・1855年)
7位 ペスト・ローマ帝国の疫病(死者数500万人・165年〜180年)
8位 ペスト・17世紀の大疫病(死者数300万人・1600年)
9位 アジアかぜ(死者数110万人・1957年〜1958年)

●インフルエンザの季節がやってきた | 日医on-line https://www.med.or.jp/nichiionline/article/009110.html
「第一次世界大戦の末期に発生したスペイン風邪は、一回の流行としては最大の感染者、死者を出し、感染症の歴史の中で最大の悲劇です。当時の世界人口は18億人、少なくともその半数から三分の一が感染し、死亡率は10~20%になり、世界人口の3~5%が死亡したと推定されています(約8000万人とも)。」

●『ペストと都市国家』 http://polylogos.org/books/cipolla.html
「疫病は社会の構造をあらわにする。フーコーは癩病のモデルとペストのモデルを対比させるのがつねだった。排除するモデルと、登録して監視するモデルである。現代の社会はその両方を巧みに使いこなして社会の成員を規制する」。

●世界的な交通安全基準の欠如 - ZF https://www.zf.com/site/magazine/ja/articles_19328.html
「低所得国では、歩行者、自転車、オートバイを伴う死亡者数が全死亡者の半数以上を占めています。最も脆弱な道路利用者を保護するべく、インフラが改善されなければなりません。」