[結語] 倫理と経済が融合した「イスラームの道」

◎かつてシュンペーターはこういいました。「資本主義は、その経済的失敗のゆえに崩壊するのではない。反対に、経済的成功のゆえに没落する。それは資本主義文明の衰退というものなのである」。21世紀のいま、暗示的な一言です。

しかしそれよりはるか数百年前、そもそも「資本主義なき市場経済」を、社会として組みたてた知恵がありました。イスラーム文明です。「西欧近代」とは異なる、市場経済における「イスラームの道」。それを解説したのが『イスラーム世界の社会秩序(加藤博)』です。 その第二巻の「結語」をブログ公開します。

◎全体構成
Vol.1 イスラーム経済社会の構造(理論編)
Vol.2 市場経済における「イスラームの道」(歴史編)
Vol.3 基本概念・基礎用語編

 結 語 市場経済における「ヨーロッパの道」と「イスラームの道」

本書でイスラーム世界の経済史を叙述する際に、とりわけ意を用いたのは、次の三点である。

第一は、イスラーム経済史をイスラームの経済に対するビジョンの展開として描くことである。その際、ビジョンを問題するとしても、その規範内容の分析によってビジョンの「意味」を探るのではなく、ビジョンが結果として、実際の経済行動や経済制度にどのように反映していたかを叙述した。

第二は、市場経済と資本主義を区別したことである。市場経済はどこの社会、いつの時代にも存在した。これに対して、資本主義は、ブローデルが論じたように、ヨーロッパにおいて、そして近代という時代に、市場経済の歴史的な「寄生物」として形成された。そうしないと、同じく市場経済に立つイスラーム経済と資本主義との違いをクリアーに示せないと考えたからである。

そして第三は、イスラーム経済を「社会に埋め込まれた経済」として捉えようとしたことである。市場経済はどこの社会、いつの時代にもみられた。しかし、その歴史的な現れは、それぞれの社会と時代に固有な社会経済環境の特徴を刻印されている。こう考えて始めて、単線的ではない、複線的な市場経済の歴史を描くことができると思われた。

かくて、市場経済の歴史において、産業資本主義を生み出した「ヨーロッパの道」とは異なる「イスラームの道」を指摘することができた。ここで、「イスラームの道」とは、前近代のイスラーム世界において展開した市場経済、つまりイスラーム経済の歴史である。

イスラーム経済は市場経済であった。しかし、それにもかかわらず、「イスラームの道」は産業資本主義を生み出しえなかった。なぜなのか。誰しもこの問いを発したくなる。しかし、ここでは、「イスラームの道」において、資本主義がそこから離れた「社会に埋め込まれた経済」にあっても、高度な市場経済を発展させえたという事実を確認するだけでよい。

そのうえで、市場経済の歴史における「ヨーロッパの道」と「イスラームの道」とを比較してみよう。比較の材料は、「利子」の問題である。

現在、「利子」をめぐって、イスラームはキリスト教とは異なり、かたくなに「利子」の取得を禁じているとの議論がなされている。たしかに、イスラームは今もって、「利子」、つまりリバーに敏感である。しかし、イスラームという宗教が、つねに、どこでも、リバーを禁止してきたわけではないことは、すでに指摘した。

■関連知識カード/章説明他:管理可能な不確実性(リスク)としてのリバー 取引の不確実性への警告としてのリバー禁止イスラーム事業経営における利得と倫理

イスラームは「利子」を禁止する宗教であるとの見解は、法的な、そして「原理主義的」な解釈に基づいてのものである。歴史的にみれば、リバーをゆるく「高利」とするのが、法解釈の主流であった。

したがって、「利子」をめぐるキリスト教徒とイスラームとの違いは、一方はそれを認め、他方はそれを認めないということにあるのではない。

過去において、カトリックの教会法も、イスラーム法と同様-歴史の順序からは、イスラーム法もカトリックの教会法と同様に、というべきであろう-、「利子」取得に否定的な規定を含んでいた。また、経済の発展のなかで、カトリックの教会法も、イスラーム法も、「利子」の取得をめぐって、経済的要請と社会的公正との間で板ばさみになった。

ところが、経済の発展への対応において、カトリックとイスラームは異なる道を選んだ。しかし、それは、カトリックの教会法とイスラーム法とが経済的要請と社会的公正のどちらを優先したかの問題ではない。

また、前近代のヨーロッパとイスラーム世界で、どちらの経済が発展していたかの問題でもない。信仰心の強さや経済の発展度を競っても、問題の解決にはならない。問題の核心は、「利子」の取得を容認するための法的レトリックにあった。

市場からの要請をうけ、「利子」をゆるく解釈し、「利子」を事実上容認したことにおいて、カトリックの教会法もイスラーム法も同じであった。ただし、カトリックの教会法はその解釈の正当性を教会法とは別の規範体系に求めたのに対して、イスラームはその手続きをあくまでもイスラーム法のなかでの法解釈でもってなそうとした。

かかる違いがカトリックとイスラームにおける宗教と経済との関係をめぐる教義上の差異によってもたらされたものであるか否か、について筆者は解答をもたない。ただあきらかなのは、その結果として、その後のヨーロッパとイスラーム世界における宗教と経済との関係が大きく異なったものになったということである。

こうして、「利子」をめぐる弁証の違いと、市場経済の発展経路における「ヨーロッパの道」と「イスラームの道」との分岐が、重なることになる。「利子」の呪縛から解き放たれたヨーロッパは資本主義を生み出し、近代において経済の「勝ち組」となった。その一方で、「利子」にこだわり続けたイスラーム世界は経済の産業化に失敗し、近代において経済の「負け組」となった。

ヨーロッパは、人びとの心に飽くなき利潤獲得へのインセンティブを作り出し、それを原動力として、経済成長にまい進した。その一方で、イスラーム世界は、前近代において、神への帰依と市場での利益追求へのインセンティブとが結びついて経済の発展をみたが、現在では、経済的要請と社会的公正の間でたたずんでいるようにみえる。

しかし、その姿は、筆者には貴重なものにみえる。そこに、道徳・倫理から遊離し、暴走気味の現代資本主義とは異なる、市場経済の展開における、倫理と経済とが融合した「イスラームの道」の可能性を期待するからである。

 


 

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