[はじめに]Vol.1 イスラーム経済社会の構造(理論編)

◎脱西洋史観、これがいまのアカデミズの新常識、ニューノーマル。「近代」を相対化する「イスラーム」という視座、思索の成果をコンパクトに学べる書、『イスラーム世界の社会秩序 もうひとつの「市場と公正」』。経済学、社会学を基礎から、根本から学びたい人に、そして学び直したい人にいま話題です。 その第一巻の「はじめに」をブログ公開します。

◎全体構成
Vol.1 イスラーム経済社会の構造(理論編)
Vol.2 市場経済における「イスラームの道」(歴史編)
Vol.3 基本概念・基礎用語編

はじめに

なぜ世界経済史は西欧「近代」から開始されねばならないのか?

イスラーム世界の経済史を研究するなかで、一つの疑問を抱き続けてきた。人類史的な長期の歴史を対象にしたものを除き、なぜ「世界経済史」と題された著作のほとんどが産業革命から、あるいはせいぜい遡ってもイタリア都市国家の勃興から開始されているのであろうか、という疑問である。つまり、このことを文字通りに取れば、「世界」は、いわゆる「近代」のヨーロッパに始まる、と言うことになる。

言うまでもなく、我々が生きる今日の時代は、ヨーロッパが「近代」と呼んできた時代の延長にある。そして、近代と呼ばれる時代が西欧の時代であり、世界が西欧を中心にしてグローバルに結びついた経済のもとに置かれるようになる時代であった。したがって、「近代」を出発点として世界経済史を叙述することには、現代的な意味がある。

しかし、21世紀に入り、欧米中心の世界経済体制、つまり近代資本主義が大きな限界に直面し、袋小路にはまっていることは明らかである。地球規模での環境破壊、拡大する貧富の格差、世代間での溝など、現在世界が早急に対処すべき問題は多い。すべて、対処療法では済まない難問である。

さらに、世界経済の中心が西欧、さらには欧米からアジアに移っていると指摘されて久しい。つまり、現代を含めた、西欧中心の時代としての「近代」は終わろうとしている。

こうした時代の転換を背景に、現在、世界経済の歴史研究として期待されるのは、西欧「近代」を出発点とした歴史の叙述ではなく、長い時間の歴史の中で、西欧「近代」をという時代を相対化し、「これからの」人間の経済生活にとって必要な、少なくとも現在の近代資本主義に代わるビジョンを、「これまでの」歴史の中に探ることである。この点、イスラーム経済の歴史には、多くの重要な示唆が含まれている。

近代資本主義を逆照射するイスラーム経済

今日、オリエンタリズム批判に代表されるヨーロッパ中心史観への反省は定着した感がある。経済史の分野でも、欧米中心の経済史に対する見直しが進んでいる。グローバル・ヒストリーの流れはその一つである。そこでは、西欧中心の経済史を相対化する試みがなされているが、近世ではヨーロッパと中国は同じ経済水準にあったが、その後、両者の分岐が生じたとする、ポメランツによる大分岐の議論がその典型である。

しかし、こうした議論で展開されているのは、ヨーロッパ中心史観(オリエンタリズム)を相対化する意図はあるものの、あくまでも産業革命を出発点とした「世界経済史」の枠の中での「ヨーロッパと非ヨーロッパとの比較」であり、結局のところ、ヨーロッパを中心とした近代の世界経済システムが形成された経緯についての議論である。

もちろん、こうした議論を否定するつもりはない。しかし、その一方で、なぜいつまでも、比較の基準が近代西欧でなければならないのかとも思う。現在を終着点とする歴史モデルである限り、どのような比較を試みても、所詮、それはなぜヨーロッパを中心とした近代の世界経済システムが形成されたのかの議論に収斂してしまう。

これからは「アジアの時代」だ、と主張するつもりはない。しかし、世界経済の中心が徐々に欧米からアジアに移ってきていることは間違いない。そこで、近代西欧をモデルにする比較は、そろそろ控えても良いのではないかと思われる。アジアの事例のなかでの比較が試みられるべきであるし、実際にそれは始められている。

さらに、「ヨーロッパと非ヨーロッパとの比較」において、なぜ取り上げられるのがもっぱら中国なのかとも思う。もちろん、西欧との比較において中国を取りあげること自体に反対はしない。前近代における世界経済の中心の一つが中国であったことは、間違いないからである。

しかし、両者に交流があったとはいえ、前近代における西欧と中国は距離的にあまりにも離れている。アナール学派の創始者の一人、マルク・ブロックは、歴史学における方法として比較の重要性を述べた論文のなかで、比較という方法について、次のように述べている。

「一定の類似性が存在すると思われる二つあるいはそれ以上の現象を選び出し、選び出された現象それぞれの発展の道筋をあとづけ、それらの間の類似点と相違点を確定し、そして可能な限り類似および相違の生じた理由を説明すること」。

その上で、二つの比較を指摘している。第一は、比較の対象が、「時間的にも空間的にも著しく隔たっているため、明らかに相互の影響関係によってもあるいはいかなる意味の起源の共通性によっても、その類似性が説明されえない」場合である。

第二は、「隣接していると同時に同時代のものであり、相互に絶えず影響を与えあっており、発展の過程において、まさにその近接性と同時性故に、同一の大きな原因の作用に支配されており、少なくとも部分的には共通の起源に遡りうる」場合である。

グローバル・ヒストリーでの大分岐の議論における比較は、典型的な第一の比較である。ところで、歴史学にとって一般的であり、より有効的であると思われるのは、マルク・ブロックのヨーロッパ社会経済史研究のほとんどがそうであるように、第二の比較である。

こう考えたとき、近代という時代を生み出した西欧と「隣接していると同時に同時代のものであり、相互に絶えず影響を与えあって」いたのは、どの世界であろうか。指摘するまでもなく、それはイスラーム世界である。そして、そうであるならば、近代前後の西欧との比較において有効なのは、イスラーム世界との比較ではないであろうか。

 


 

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アイカードブック創刊の狙い | ちえのたね|詩想舎 http://society-zero.com/chienotane/archives/5063

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