こうした見方に立てば、わたしたちに「因果からの自由」などはないということになる。一切は、神や社会や遺伝子、あるいは脳などに、そもそも〝決定されている〟のだから。
しかし、こうした議論はあまりにナイーヴというほかないものだ。というのも、わたしたちが社会や脳、遺伝子等によってその認識や行動のすべてを決定されているかどうかなど、原理的にいって決して分からないことであるからだ。※I):19世紀イギリスの哲学者ミルもまた、その『自由論』を書き起こすにあたって、哲学史を通して問われてきた「意志の自由」はありうるかなどという問題は、ここでわれわれの問うべき問題ではないと切って捨て、市民的・社会的自由の条件をこそ明らかにするべきだと述べた。
■参考文献
『純粋理性批判』 イマヌエル・カント 原著一七八一年※II):西洋近代哲学の基本文献のひとつ。人間の理性の限界を問い、当時の知の枠組みを根本から組み替えることを企図、感性の先天的形式(時間・空間)と悟性の形式である範疇が総合されてはじめて確実な認識が得られるとした。[編集部]
『自由論』 ジョン・スチュアート・ミル 原著一八五九年
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註
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II. | 戻る | :西洋近代哲学の基本文献のひとつ。人間の理性の限界を問い、当時の知の枠組みを根本から組み替えることを企図、感性の先天的形式(時間・空間)と悟性の形式である範疇が総合されてはじめて確実な認識が得られるとした。[編集部] |