言葉は認識に即している

最初から対象があって言葉があるのではなくて、人間の認知プロセスの中で、あるまとまった「シニフィエ」(表現されるもの)に対して「シニフィアン」(=記号)が与えられていく。

つまり言葉は実体に則しているというよりも、認識に則しているのです。言葉が物に則している以上の抽象度を持つことができるのはこの理由によります。

水、敵、道といった名前で存在する事物が世界にもともとあるわけではなく、むしろわたしたち自身が、わたしたちの関心に応じて、世界に対し水、敵、道という言葉を割りあてているのです。※I):「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば(その時々の関心や意識などの)観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると、あらかじめ告げるものは、なに一つないのである。」(引用:フェルディナン・ド ソシュール『一般言語学講義』 東京大学出版会、二〇〇七年)


■参考文献
ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート』  フェルディナン・ド ソシュール  原著一九〇五年

ソシュールを読む』  丸山 圭三郎 一九八三年

★この記事はiCardbook、『<人工知能>と<人工知性>: —— 環境、身体、知能の関係から解き明かすAI—— 』を構成している「知識カード」の一枚です。

人工知能と人工知性
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I. :「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば(その時々の関心や意識などの)観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると、あらかじめ告げるものは、なに一つないのである。」(引用:フェルディナン・ド ソシュール『一般言語学講義』 東京大学出版会、二〇〇七年)