「自由の相互承認」の土台となるべき、最後の圏域としてヘーゲルが描き出すのが「国家」である。I):この「国家」論のゆえに、ヘーゲルの哲学は現代においてきわめて評判が悪い。特に『法の哲学』で論じられている君主権の必要以上の礼讃は、今日時代錯誤の感を免れない。しかしわたしたちはこの点については、当時の専制国家プロイセンにおける、ヘーゲルのやむにやまれぬ方策であったと解釈する必要がある。(この点については、『「自由」はいかに可能か』の「第三章・第一節 ヘーゲルの「自由」論」において解説をした。)
国家は「自由の現実態である」とヘーゲルはいう。
家族や市民社会だけでは十分に実質化し得ない各人の「自由」を、国家が最終的に、そして根底的に、責任を持って実質化しなければならないのだ。
■参考文献
『法の哲学』 §二五八追加 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 原著一八二一年
『「自由」はいかに可能か―社会構想のための哲学』 苫野 一徳 二〇一四年
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註
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