労働の成果が物質的なものに体現・固定されるかどうかで区分することは、製造業によって作られるさまざまな人工物を「富」として認識することとなった。
これにより、「富」は物質的なものであるという概念が成立した。他方、召使いの労働のようにサービスを提供する労働は、富の増加に寄与しないものとして取り扱われた。
この点、『国富論』では、「家事使用人の労働は、具体的な物、販売できる商品の形になることがない。使われた瞬間に消えるのが通常であり、労働の結果や価値が残ることはめったになく、後に同じ量の労働を購入できる価値が残ることもめったにない」と述べられている。※I):引用 『国富論』(日本経済新聞社、二〇〇七年)
■参考文献
『国富論』 アダム・スミス 原著一七七六年※II):スミスは、本書で富の源泉を探究したが、当時は、重商主義の「金銀貨幣=富」観と、重農学派の「農業だけが富の源泉だ」という見方とが対立していた。[編集部]
『アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界』 堂目 卓生 二〇〇八年[編集部]
サントリー学芸賞|堂目 卓生 『アダム・スミス ― 「道徳感情論」と「国富論」の世界』 サントリー文化財団[編集部]
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註
I. | 戻る | :引用 『国富論』(日本経済新聞社、二〇〇七年) |
II. | 戻る | :スミスは、本書で富の源泉を探究したが、当時は、重商主義の「金銀貨幣=富」観と、重農学派の「農業だけが富の源泉だ」という見方とが対立していた。[編集部] |