人間だけが「自由」を求める

なぜ、人間的欲望の本質は「自由」にあるといえるのか?

たとえば動物は、おそらく「自由」になりたいなどとは思っていない。ただそのつどの本能的欲求を満たしながら生きているだけだ。

しかし人間は違う。愛されたい、認められたい、裕福になりたい……そうした複数ある人間的欲望によってわたしたちが規定されている限り、わたしたちは必ず、この規定性を何らかの形で克服し、「自由」になりたいと欲さざるを得ないのだ。※I):「もろもろの衝動、欲求、傾向は、動物にもある。だが動物はなんら意志をもたないのであって、そうすることをさまたげる外的なものがなにもなければ衝動にしたがわずにはいない。

しかし人間はまったく規定されていないものとして、もろもろの衝動より上にあり、これらの衝動を自分のものとして規定し定立することができる。
衝動は自然ないし本性のうちにある。だが私が衝動をこの私という自我のうちに定立するということは、私の意志に依る。」(『法の哲学』 §11追加 (中公クラシックス、二〇〇一年))

■参考文献
『法の哲学』  ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 原著一八二一年


★この記事はiCardbook、『自由の相互承認 —— 人間社会を「希望」に紡ぐ —— (上)現状変革の哲学原理』を構成している「知識カード」の一枚です。
  

 

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I. :「もろもろの衝動、欲求、傾向は、動物にもある。だが動物はなんら意志をもたないのであって、そうすることをさまたげる外的なものがなにもなければ衝動にしたがわずにはいない。

しかし人間はまったく規定されていないものとして、もろもろの衝動より上にあり、これらの衝動を自分のものとして規定し定立することができる。
衝動は自然ないし本性のうちにある。だが私が衝動をこの私という自我のうちに定立するということは、私の意志に依る。」(『法の哲学』 §11追加 (中公クラシックス、二〇〇一年))