暴力的な「べき論」

「事実」から「当為」を導出する方法の二つ目の問題は、それが当事者の「欲望・関心」を、ほとんど、あるいは全く考慮に入れていない点にある。

「犯罪者脳」とラベルを貼られた子どもたちは、その子どもや親が望まなくとも、隔離あるいは矯正教育を施されるべきとされる。

しかしこれは、あまりに乱暴な当為(べき)論と言うべきだろう。

仮に「犯罪者脳」というものがあり、それに該当する子どもがいたとしても、そこから隔離あるいは矯正教育を施すべきであるという理屈には、明らかな飛躍がある。

「である」から「べき」を直接的に導出するのは論理的な越権なのだ。※I):マックス・ヴェーバーは、いわゆる「客観性論文」において次のように言っている。「経験科学は、なんぴとにも、なにをなすべきかを教えることはできず、ただ、かれがなにをなしうるか、また——事情によっては——なにを意欲しているか、を教えられるにすぎない」(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』 (岩波文庫、一九九六年))。

■参考文献
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』  カール・エミール・マクスィミリアン・ヴェーバー    原著一九〇四年
『自由 (思考のフロンティア)』  斉藤 純一 二〇〇五年※2II):政治学者の齋藤純一も次のように言っている。「テイラーの議論の問題は、そうした各人の価値判断を方向づけるべき「意味=重要性の先行的な地平」は、いったいだれによって解釈されるのかということにある。その「地平」を共有しているとされる共同体に解釈の「最終的な権威」が委ねられるのだとすれば、「共通善」による自由の抑圧という帰結を避けることはできないだろう〔後略〕。」(『自由』 I・二自由の質 (岩波書店、二〇〇五年))

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自由の相互承認
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I. :マックス・ヴェーバーは、いわゆる「客観性論文」において次のように言っている。「経験科学は、なんぴとにも、なにをなすべきかを教えることはできず、ただ、かれがなにをなしうるか、また——事情によっては——なにを意欲しているか、を教えられるにすぎない」(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』 (岩波文庫、一九九六年))。
II. :政治学者の齋藤純一も次のように言っている。「テイラーの議論の問題は、そうした各人の価値判断を方向づけるべき「意味=重要性の先行的な地平」は、いったいだれによって解釈されるのかということにある。その「地平」を共有しているとされる共同体に解釈の「最終的な権威」が委ねられるのだとすれば、「共通善」による自由の抑圧という帰結を避けることはできないだろう〔後略〕。」(『自由』 I・二自由の質 (岩波書店、二〇〇五年))