ウォルツァーの「自己の成り立ち問題」批判

テイラーやサンデルと同様、一般にコミュニタリアニズムの思想家とされているウォルツァーは、先の二人とはまた別の思考法をとる。

人間はそもそもどのような「状態・事実」に置かれた存在か。これは現代政治哲学の用語では、「自己の成り立ち」問題と呼ばれてきた。しかしウォルツァーは、政治理論はこのような問題にかかずらう必要はないと主張するのだ。※I):ウォルツァーは次のように言う。「リベラルな理論もコミュニタリアンな理論もこの種の見解〔自己の成り立ちにかんする理論〕を必要としない。現代のリベラルは前社会的な自己にコミットしているのではなくて、自己の社会化を支配してきた諸価値について批判的に考察する能力をもった自己にコミットしているにすぎない。そしてコミュニタリアン的批判者たちとは、まさにそうした批判的な考察を行っている人たちであり、社会化がすべてであると言いつづけることなど彼らには到底できないのである。」(『政治と情念』 Ⅶ リベラルな共同体の可能性 (風行社、二〇〇六年))

政治と情念
政治と情念

■参考文献
『政治と情念——より平等なリベラリズムへ』  マイケル・ウォルツァー 原著二〇〇四年


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I. :ウォルツァーは次のように言う。「リベラルな理論もコミュニタリアンな理論もこの種の見解〔自己の成り立ちにかんする理論〕を必要としない。現代のリベラルは前社会的な自己にコミットしているのではなくて、自己の社会化を支配してきた諸価値について批判的に考察する能力をもった自己にコミットしているにすぎない。そしてコミュニタリアン的批判者たちとは、まさにそうした批判的な考察を行っている人たちであり、社会化がすべてであると言いつづけることなど彼らには到底できないのである。」(『政治と情念』 Ⅶ リベラルな共同体の可能性 (風行社、二〇〇六年))