「恣意としての自由」は不可能

したがってわたしたちは、あらゆる欲望を完全に満たし、何でもやりたい放題でい続けることなど、原理的に不可能なのである。

にもかかわらず、完全な「やりたい放題」を「自由」の本質と考え、それを目指すとするならば、それはむしろ「自由」からは最もかけ離れたものとなる。

というのも、たとえそのような瞬間が仮に訪れることがあったとしても、それはまったくの偶然的なことであるからだ。

自らの自由を偶然にゆだねるなど、語義矛盾というほかないだろう。※

■参考文献
『法の哲学』  ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 原著一八二一年
「ヘーゲルとフランス革命」  村上 恭一 『法政大学教養部紀要』 19pp.41 - 61 , 1974-03-25 , 法政大学教養部[編集部]


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