関係性のなかのイスラーム経済

自著解題:『イスラーム世界の社会秩序』(一橋大学名誉教授 加藤博)(6)

1.関係性と社会秩序
2.iCardbookスタイルでの出版
3.著作『イスラーム世界の社会秩序 もうひとつの「市場と公正」』
4.もうひとつの市場経済の道
5.イスラーム経済における市場と公正
6.関係性のなかのイスラーム経済

 

(本稿は加藤博氏が自著の「解題」を信州イスラーム世界勉強会HP へ寄稿したもの。執筆者の加藤博氏と勉強会主催者の板垣雄三氏のご了解のもと転載しています。)

 


関係性のなかのイスラーム経済

第三巻の冒頭のエピグラムは、哲学者ウィトゲンシュタインの言葉です。

わたしの書くどの文章も、意味するところは、いつもつねに全体である。ということは、同じことをくりかえし言っているということになる。ひとつの対象をさまざまな角度から眺めたようなもの、にすぎない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン)

ウィトゲンシュタインは、言語と認識行為の関係を分析した哲学者です。この言葉で意味されているのは、すべての部分は一つの全体を構成していること、したがって、どの部分に注目するにしても、全体との関係でしかその意味は理解できない、ということです。少し、説明が必要かもしれません。

同じ言葉や行為についても、人は異なる見解をもち、互いを理解することは難しい、とは日常的に経験することです。それはなぜなのか。私が理解するウィトゲンシュタインの答えとは、人は同じ社会で生活していても、彼・彼女の社会との関係の持ち方が異なるからだ、と言うものです。

なんだ、そんなこと当たり前で、言われなくても分かっている、と思われるかもしれません。しかし、ここで重要なのは、禅問答のようですが、人(部分)が集まったからと言って社会(全体)ができるわけではない、と言うことです。人(部分)と社会(全体)は切り離せない。両者が「入れ子」のように深く関係しあっているからです。

したがって、両者の関係の仕方―難しい言葉を使えば、「関係性」―が変われば、人と社会は同時に変わる。人が社会を変えるように見えるときでも、それは人が社会そのものを変えるからではなく、人と社会との関係のあり方を変えるからである。また、革命のように、一見すると社会の変化が人を変えるように見えるときでも、変わるのは人そのものではなく、人の社会との関係のあり方である、と言うことです。

本題のイスラームの「公正」という言葉に引きつけて言えば、私が関心を持つのは、個々のイスラーム教徒の「公正」観や教義としてのイスラームの「公正」観以上に、コモンセンスとしての「公正」観をキーワードに、イスラーム社会で、どういう人と社会の関係が、先に指摘した「宗教に埋め込まれた経済」を実現したかを知ることです。イスラーム社会には、イスラーム教徒のほか非イスラーム教徒が生活し、彼らもまたイスラーム経済を営んでいました。

つまり、ここで問題にしたく思うのは、言葉や理念ではありません。言葉や理念がいかに人を惑わせるかは、20世紀を生きた我々が身に染みて感じていることだと思います。何度、我々は言葉や理念に裏切られてきたことでしょう。言葉や理念は、現実の社会の仕組みに反映されない限り、社会に継続的な影響を及ぼすことはできないし、できないのみならず、社会に混乱を引き起こしさえします。

イスラーム経済も、現実の社会の仕組みとして展開しない限り、机上でのモデルに留まります。私がイスラーム経済に注目するのも、イスラーム経済が歴史の現実のなかで、実際に、市場経済の発展の「もうひとつの」道として展開してきたからです。そして、そこに、括目すべき人と社会との関係をみてとれるのです。

このことを示すいくつもの事例を、拙著では挙げました。そのうち、もっとも多くのカードを作成したのは、ワクフというイスラームの寄進制度についてです。ワクフは本当に巧妙に設定され、運営された寄進制度です。その運営の仕方や社会経済生活で担ってきた役割は、時代によって変化してきました。しかし、その原則は、変化していません。

このようなワクフを、短い文章で解説するのは難しい。しかし、そこには、イスラーム経済における人と社会の関係が凝縮されて示されていますので、ワクフを具体的な事例とし、その簡単な解説を試みるなかで、これまでの議論を敷衍してみましょう。

まず、ワクフの名の由来です。ワクフとは、「停止すること」「凍結すること」を意味するアラビア語です。ワクフは寄進制度であり、寄進者が私財を慈善目的のために提供することによって成り立っています。ワクフ制度では、こうして提供された寄進財について、原則、その処分は永久に禁止、つまり「停止」・「凍結」(ワクフ)されるところことから、イスラームの寄進は、ワクフと呼ばれました。

ワクフは、イスラーム教徒に課された五つの宗教的義務(信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼)の一つである喜捨(ザカ-ト)に基づいています。この信徒の宗教的精神による自発的行為を拠り所にしているという点では、ワクフも他の宗教の寄進と変わりありません。

しかし、ワクフには、他の宗教の寄進とは決定的に違う点があります。それは、他の宗教の寄進では、寄進者は寄進後、寄進財との直接的な関係を断たれることになりますが、ワクフの場合、寄進者は私財を寄進する際に、寄進財を自らが指定する管理人に委ね、寄進の目的や対象など寄進財の運用に関して、こと細かな取り決めを文書の形で指示することができたのです。

このように、ワクフでは、寄進者による寄進財の運用に対する裁量が認められていました。したがって、当然のことながら、寄進財が公共目的ではなく、私的目的に使われるということにもなります。しかし、イスラーム法学者はこの点について鷹揚でした。寄進財の一部が、あるいは寄進財が最終的に公共目的に供されると文書で約束されている限り、寄進財の私的目的が含まれる寄進と、当初から寄進財のすべてが公共目的に供された寄進との間に区別を設けず、ともにイスラーム法に照らして有効な寄進と認めました。

なぜ、このような、生真面目な日本人には理解しがたい、融通無碍な解釈がなされたのでしょうか。その理由を突き詰めて行くと、先に指摘した、この世の森羅万象の存在を神の意志に基づかせるイスラームの世界観に行き着きます。この世界観では、人は神との一対一の直接的な契約を結ぶことで存在を許されるのであり、キリスト教の教会、仏教の寺院のような、人と神とを仲介する組織はありません。日本ではしばしば、モスクのことをイスラーム寺院と訳されることがありますが、それは間違っており、モスクは礼拝が行われる場所でしかありません。

つまり、イスラームは原則、中央集権的な宗教の権威を持たず、すべてが個人の意思から出発し、社会は人と人との関係から成り立っているのです。イスラームでは金儲けの欲望が肯定されているのも、この世界観に基づくのだとは、すでに指摘した通りです。ワクフの場合も、人間の欲望を肯定する限り、理想からの逸脱は避けえないと、イスラームは実利的にものを考えるのです。

実利的にものを考えるとは、言い換えれば、人の行為の良し悪しを、行為の動機によってではなく、その結果によって判断するということです。私は、現代の日本人にとって必要なのは、こうした広い幅を持つ解釈の上に立った実利的な思考ではないか、と思っています。

話をワクフについて戻しますと、こうした実利的な寄進財の運用がもたらす効果、それは、個人の寄進に対するインセンティブ(動機づけ、誘因)が高められ、その結果、イスラーム社会においてワクフの広範な普及がもたらされたということです。

ワクフによって寄進されるのは、ほとんどが土地や建物です。それは、寄進によって公共目的に供された資金が、賃貸借など、寄進財についての資産運用からあがる収益であったからです。つまり、ワクフは交換経済なしには存在し得ず、個人の欲望を基礎とした市場での資産運用を前提にしているのです。

前近代のイスラーム世界では、ワクフは広まり、都市のインフラのほとんどはワクフによって建設され、維持されました。つまり、ワクフは個人の宗教的な行為を超えて、社会を維持する社会経済システムになっていたということです。というのも、ワクフでは、私的な欲望に基づく寄進財の資産運用の結果として、公的な所得の再分配と社会資本の形成が実現されたからです。つまり、ワクフは、目に見える形ではないものの、社会にビルトインされた(埋め込まれた)所得の再分配と社会資本の形成のためのチャンネルとして機能したのです。ワクフの普及と市場経済の発展は、歩を共にしていました。

以上から、なぜ私が、イスラーム経済は市場経済でありながら「社会に埋め込まれた経済」として展開したと評価し、拙著のタイトルにあるように、イスラーム経済を近代資本主義とは異なる、市場経済の「もうひとつの」道だと考えるようになったかの理由を、少しはご理解いただけたでしょうか。

ところで、私は、このエッセイの冒頭で、コロナ後の世界において持続可能な社会を維持するためには、個人、コミュニティ、国家のすべてが変わらなければならないであろうこと、そして、そのためには、個人、コミュニティ、国家の三者が新しい関係を持つことが必要であろうことを指摘しました。その上で、新しい関係を考える際に、「イスラーム世界の社会秩序」は参考になるであろうと、その概要を紹介してきました。

そこでは、個人とコミュニティ、つまり社会との関係に焦点を当てて話を進めたため、個人、コミュニティ、国家のうち、国家については言及しませんでした。そこで、最後に一言、イスラーム社会における、個人、コミュニティと国家との関係についての私の考えを簡単に述べておきましょう。

イスラーム世界でも、それを国家と呼べるかどうかは別にして、政治権力は社会にとって重要で、それなしには、社会秩序を維持することはできませんでした。しかし、それは、国家が人や社会を管理するという意味においてではなく、人が平穏に日常的な生活の営みを行う場としての社会を保証するという意味においてです。

実際、イスラーム世界の政治権力のほとんどは、異民族征服王朝でした。したがって、彼らが統治を有効になそうと思うならば、統治する人や社会によって支配の正当性が認められなければなりませんでした。そして、彼らが統治しようとしたのは、ほかならぬイスラーム社会でした。つまり、イスラーム世界の政治権力は、みずからをイスラームの保護者だと主張しない限り、継続的に人と社会を統治することはできなかったということです。

イスラーム経済との関係でいえば、イスラームでは、国家が経済に、恣意的に介入することを良しとしませんでした。また、イスラームの寄進制度であるワクフについても、それがイスラーム法の管轄事項であったところから、非常時ならともかく、日常時にはワクフの設定や運営に介入できませんでした。そもそも、政治権力者が、みずからの統治の正当性を示すためにも、進んで私財を寄進(ワクフ)しました。この意味において、イスラーム政治は、イスラーム経済がそうであったように、「社会に埋め込まれて」展開していたのです。


 

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