[結語]人類全体の福祉という視点

◎脱西洋史観、これがいまのアカデミズの新常識、ニューノーマル。「近代」を相対化する「イスラーム」という視座、思索の成果をコンパクトに学べる書、『イスラーム世界の社会秩序 もうひとつの「市場と公正」』。経済学、社会学を基礎から、根本から学びたい人に、そして学び直したい人に話題の本です。 その第一巻の「結語」をブログ公開します。

◎全体構成
Vol.1 イスラーム経済社会の構造(理論編)
Vol.2 市場経済における「イスラームの道」(歴史編)
Vol.3 基本概念・基礎用語編

 結 語  イスラーム世界の社会秩序

イブン・ハルドゥーンの経済論は徹底した市場経済論であった。ところが、興味深いことに、イブン・ハルドゥーンの経済論、さらにはイスラームの経済ビジョンでは、市場の機能について楽観的見通しがみられる。この点、伝統中国との比較が興味深い。

イスラームと伝統中国との比較において、最も興味深い事実の一つは、両者がともに利得の欲望について肯定的だということである。そのために、前近代において、ともに競争的な市場経済を発展させた。

しかし、同時に大きな違いも存在する。伝統中国では市場は放っておけば暴走をしかねず、政治による管理・統制が必要であると考えられたのに対して、イスラームでは政治による市場の介入は極力排された。そこには市場に対する楽観的な態度が見られるが、この違いはどこに起因するのであろうか。

おそらく、その理由は、イスラームにおける個人の欲望の肯定(個人のインセンティブ)と共同体の福祉(共同体的な社会規範)とのバランス良い結びつきにあった。このバランス感覚が、先に指摘したコーランにおける「アッラーは商売をお許しになった、だが利息取りは禁じ給うた」(2章276節)という文言の背景にあったように思う。

アダム・スミスの『国富論』には、「自然価格」という概念がみられる。それは、市場での需要と供給で決まる「市場価格」と対比される価格であり、アダム・スミスはそれを、「自然価格は、いわば、すべての商品の価格をたえず引きよせる中心価格である」と表現している 。

つまり、自然価格は「それ相応な」売り手の利益を組み込んだ価格であり、先のコーランの文言で許された商売とは、この「自然価格」に基づく商売であると考えられる。「それ相応な」の利益の定義はない。しかし、そこに、市場での需要と供給のメカニズムを超えた「何か」がある。それを神と呼ぼうが倫理と呼ぼうが、さらに人倫と呼ぼうが、市場を超えて社会に秩序をもたらす「何か」である。

イブン・ハルドゥーンは経済を論じる際に、イスラーム、つまり神を持ち出さなかった。このことをもって、イブン・ハルドゥーンは世界で最初の社会科学者である、と評価されることもある。しかし、忘れてはならないのは、イブン・ハルドゥーンは著名なイスラーム法学者であったことである。

したがって、すべてのイスラーム思想家がそうであったように、イスラームの知の枠組みのなかで、「経済」を考えていた。それではなぜ、そこでイスラームに言及しなかったのであろうか。その理由は、単純であるように思われる。彼は、人間社会を論じる限り、神の存在は自明だったのである。このイスラーム社会の秩序原理について、岸本美緒は近代西欧、伝統中国との比較から、示唆に富む議論を展開している。*

かの女によれば、近代西欧の自然権思想も、伝統中国の「分」の思想も、法を与える神の存在しない社会であればこそ必要な、基礎づけの論理なのであり、イスラームでは「個々の主体にも、また社会全体の人倫的網の目にも先だって、つまり所与として、神が存在し、神の命令の体系としてイスラーム法(シャリーア)」があり、法学者の間でシャリーアとして認知されているならば、それ以上にさかのぼって、あえて「なぜ」を問う必要はないではないかと述べている。イブン・ハルドゥーンの次の言葉は、このことを端的に示している。

人類の存在と存続は、あらゆる人々の福祉に対する協業によってのみ実現されうる。すでに納得されたように、人間一人では自己の存在を完全に維持することは不可能である。仮定的には、協業なしに存在することもまれにはありうるとしても、その存続は不安定である。ところでこの協業はなんらかの強制によってしか得ることができない。人々は人類〔全体〕の福祉という点についてはほとんど知らず、また〔行動の〕選択権が与えられており、しかもその行動も思考と反省によってなされ、本能によって行われるのではない。したがって、人類は進んで協力するということではなく、協力するようにしむけられているのである。すなわち、人類を〔協業させるには〕、その福祉に関心を持たせるよう強制するなんらかの動因がなければならないし、それでこそ人類を存続させる神の哲理が実現される。(『歴史序説』第2巻785-6頁)」

* 「土地を売ること、人を売ること」岸本美緒 『比較史のアジア 所有・契約・市場・公正 (イスラーム地域研究叢書)』  三浦徹ほか編(東京大学出版会、2004年)

 


 

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