言語は人間的な世界分節である

ソシュールが正しく洞察したように、言語は決して「実体ではない」。

それはつまり、世界のあらゆる事物や事象がわたしたちに先立って実在しており、それら一つひとつに、言葉が実体的なものとして当てはめられているわけではない、ということだ。

海、山、川、といった名前で存在する事物が世界にもともとあるわけではなく、むしろわたしたち自身が、わたしたちの関心に応じて、世界を海、山、川という言葉で切り取っているのだ。※I):「もし言語というものが、あらかじめ与えられた概念を表出する役目を受け持ったものであるならば、それらはいずれも意味上精密に対応するものを、言語ごとにもつはずである。ところが事実はそうではない。」

「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば(その時々の関心や意識などの)観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると、あらかじめ告げるものは、なに一つないのである。」(『一般言語学講義』 (岩波書店、一九七二年))

■参考文献
『一般言語学講義』
  フェルディナン・ド・ソシュール 原著一九五七年
『ソシュールを読む』  丸山 圭三郎 一九八三年


★この記事はiCardbook、『自由の相互承認 —— 人間社会を「希望」に紡ぐ —— (上)現状変革の哲学原理』を構成している「知識カード」の一枚です。

自由の相互承認
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I. :「もし言語というものが、あらかじめ与えられた概念を表出する役目を受け持ったものであるならば、それらはいずれも意味上精密に対応するものを、言語ごとにもつはずである。ところが事実はそうではない。」

「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば(その時々の関心や意識などの)観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると、あらかじめ告げるものは、なに一つないのである。」(『一般言語学講義』 (岩波書店、一九七二年))