教育は個人のためのものか、それとも社会のためのものか、という問いは、公教育の登場以来絶えることなく続いてきたものだ。しかしこれは、公教育の本質を理解しない偽問題にすぎない。I):偽問題については、『「自由」はいかに可能か』第二章の「〝思考の出発点〟をどこに置くか」「脳科学における偽問題」、また第四章の「思考実験の問題」「「現象学=欲望論的アプローチへ」を参照のこと。[編集部]
公教育は、個人の「自由」を実質化するためのものでもあり、また同時に、社会における「自由の相互承認」を実質化するためのものでもあるのだ。
■参考文献
『教育の力』 序章 苫野 一徳 二〇一四年
【講演録】『グローバル化を考える――自由の相互承認とは――』 | NPO法人日本教育再興連盟(ROJE)[編集部]
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註
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