エレファントカーブと『父が娘に語る経済の話』

◎「『父が娘に語る経済の話』は、闘う経済学者が書いた、小さな花のような本」(ブレイディみかこ)/
従来の経済学の常識とは異なる視点で複雑な「経済」を解説してくれる◎

目次
■エレファントカーブ(あるいはエレファントグラフ)
父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話
支配者が与えるイデオロギー
経済の意思決定過程に、政治の制度を挿入せよ
読むときっと満足する読者プロファイル
まとめ

 

著者のヤニス・バルファキスが娘に、そして一般の市民に一番伝えたかったこと、それは、自分の人生と、人生を取り囲む社会の制度の束についての、大切な判断を他人任せにするな、ということ。

そしてそのために知を求めなさい。経済とはなにか、資本主義とはなにか。とりわけ資本主義がどのように生まれ、どんな歴史の中でいまの経済の枠組みを育ててきたかを自分の頭で理解しようとしなさい、ということだ。

 

■エレファントカーブ(あるいはエレファントグラフ)

「仮に一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならばどんなものであろうか、いかにその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか。故に国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである」『論語と算盤(渋沢栄一)』

19世紀の渋沢栄一が見たら、21世紀は残念な世界と写るだろうか。世界経済の現状がいかに渋沢の掲げる理想からほど遠いかを示す図画がある。世界の所得階層の分布、とりわけその歪みを表す有名なエレファント・カーブの図である。

象が鼻を持ち上げる姿によく似ていることから名付けられた。横軸に世界の富裕層から貧困層までを並べ、一定期間に各階層がどれだけ所得を伸ばしたかを示したものだ。

考案者はニューヨーク市立大学大学院センター客員教授で、社会経済的不平等研究ストーンセンターの上級フェローでもあるブランコ・ミラノビッチ
・エレファントカーブ

(マルクスも想定しない新階級の台頭 同類婚が格差を拡大:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASP6K2Q9PP67UPQJ002.html?iref=pc_photo_gallery_bottom

グラフを右から見ていくと、超富裕層を示す鼻先は高々と伸び、主に先進国の中間層を指す辺りで急降下する。次に新興国の中間層を含む領域になるとグラフは大きく膨らみ背中を描き、最後に最貧層を表す尻尾が垂れる。

このグラフが表すのは次の3点。

1.世界の上位1%にあたる超富裕層が巨額の利益を得ている
2.日本を含む豊かな先進国の中間層の所得が増えていない
3.中国やベトナムなどアジア諸国の中間層が所得を増やしている

そしてこういうエレファントカーブができあがったのはグローバル化と自由主義に基づく能力本位の経済運営(新自由主義経済)のせいだ。

情報と人と物がグローバルにつながったことで、先進国の中間層が新興国で3分の1の給料で同じ仕事をしている人々との競争にさらされ、片屋は賃金の停滞、他方に賃金の上昇が生じた。結果、世界全体の不平等が是正されたといえるが、しかし同時に先進国内での格差は広がった。なぜか。

先進国において行われた自由主義に基づく能力本位の経済運営は「再配分」に無関心だった。そのことが資本家と労働者の格差を広げた。資本家には配当や利息、家賃収入がある。労働者には労働を提供して得る給与や賃金がある。配当や利息、家賃収入は資産収益で、給与や賃金はGDPの構成要素。「経済成長率(g)は資産収益率(r)を上回ったことがない(r > g)」ことはピケティが口を酸っぱくして唱えたことだ。先進国内での格差拡大の理由はここにある。


ピケティの『21世紀の資本』を一言でいうと


ブランコ・ミラノビッチが20世紀から21世紀にかけての「格差」を問題にしているの対し、ギリシア・アテネ大学経済学部教授ヤニス・バルファキスはもう少し俯瞰的な視点から、人間の経済の成り立ちを語る。そこから格差問題への向き合い方を諭す。

 

■父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話

ヤニス・バルファキスの『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話(以下『父が娘に語る経済』)』は、この世の中になぜ格差があるのか、という問いに答えるのに、人類の数万年の足取りから始める。目次はこんな具合だ。

目  次

プロローグ 経済学の解説書とは正反対の経済の本
第1章 なぜ、こんなに「格差」があるのか? ── 答えは1万年以上前にさかのぼる
第2章 市場社会の誕生 ── いくらで売れるか、それがすべて
第3章 「利益」と「借金」のウエディングマーチ ── すべての富が借金から生まれる世界
第4章 「金融」の黒魔術 ── こうしてお金は生まれては消える
第5章 世にも奇妙な「労働力」と「マネー」の世界 ── 悪魔が潜むふたつの市場
第6章 恐るべき「機械」の呪い ── 自動化するほど苦しくなる矛盾
第7章 誰にも管理されない「新しいお金」 ── 収容所のタバコとビットコインのファンタジー
第8章 人は地球の「ウイルス」か? ── 宿主を破壊する市場のシステム
プロローグ 経済学の解説書とは正反対の経済の本

『父が娘に語る経済』はまず2014年にギリシャ語で刊行された(『Milontas Stin Kori Mou Gia Tin Oikonomia(Talking To My Daughter About The Economy)』)本だ。ところがその翌年著者のバルファキスがギリシャの財務大臣に抜擢され、国際債権団との債務再編交渉を担当。その時の苛烈な主張が世界の耳目を集め、各国の版元が本作品をこぞって翻訳、フランス、ドイツ、イギリス、スペインでベストセラーとなった。そして2017年にバルファキスが英語に書き直す作業をしたのが『Talking to My Daughter – A Brief History of Capitalism(penguin.co)』で、これが日本語版の底本となった。

世界的なベストセラー本であるものの、ギリシャの出来事は日本語圏では遠い外の世界のできごとで、西欧や米英ほどに翻訳本が売れるだろかと危惧したのか、日本の版元は、タイトルまであれこれ盛ったうえ、華やかな帯まで仕立てている。

●タイトルと表紙の変遷

・2014年ギリシア語原書

(Milontas Stin Kori Mou Gia Tin Oikonomia: Yianis Varoufakis: 9789601655444: Amazon.com: Books https://www.amazon.com/Milontas-Stin-Kori-Mou-Oikonomia/dp/9601655441/
・2017年イギリス版ハードカバー(2021年現在 オーディオ版の表紙に転用)

(Talking to My Daughter About the Economy https://www.penguin.co.uk/books/1111145/talking-to-my-daughter-about-the-economy/9781473554993.html
・2019年イギリス版ペーパーバック

(Talking to My Daughter https://www.penguin.co.uk/books/1117063/talking-to-my-daughter/9781784705756.html
・日本語版

つまり日本語圏で経済や社会についての専門的な知識への興味・関心・選好が、たとえ「娘に語りかける」スタイルのやさしい、わかりやすい本でも、その売れ行きが懸念されるほど、薄いのが現状なのだろう。

しかし彼はこういう。

「今、私たちは日替わりのニュースについて意見を交わすのに忙しく、本当に見るべきものが見えなくなっている。

私たちが真剣に考えなくてはいけないのは、資本主義についてだ。」

続けて、こうも。

「誰もが経済についてしっかりと意見を言えることこそ、良い社会の必須条件であり、真の民主主義の前提条件だ。

専門家に経済を委ねることは、自分にとって大切な判断をすべて他人にまかせてしまうこと(になる)。」

私たち日本人はもう少し、専門的な知識への興味・関心・選好を、意識してあげていくべきかもしれない。

 

■支配者が与えるイデオロギー

バルファキスはエピローグ・第八節・イデオロギー(信じさせる者が支配する)でこう尋ねている。「支配者たちはどうやって、自分たちの良いように余剰を手に入れながら、庶民に反乱を起こさせずに、権力を維持していたのだろう?」

答えはこうだ。

「支配者だけが国を支配する権利を持っていると、庶民に固く信じさせれば良い」

そしてお得意の深い歴史的知識から、話を古代から現代へと流れる普遍の原則、イドオロギーについて語る。つまりすべての支配者にはその支配を正当化するようなイデオロギーが必要になる。これは古代メソポタミアでも、今の時代でも同じだ。一つの筋書きを作って基本的な倫理観を刷り込み、それに反対する人は罰せられると、市民に思わせるのだ。

そしてかつては宗教が、なんと現代では経済学が、支配者が市民を飼い慣らす道具に使われてきた、とする。まあ、あくまで従来型の「経済学」は、ということだろが。

「宗教は数世紀にわたってそんな筋書きを語り、まことしやかな迷信で支配者の力を支え、少数者支配を正当化してきた。そして支配者による暴力や略奪を、神が与える自然の秩序として許してきた。」

「産業革命を可能にした科学の出現により、神の秩序を信じる事はあくまでも信仰であってそれ以上のものではないことが明らかになった。支配者には自分たちの正当性を裏付けてくれる新しい筋書きが必要になる。

この代表例が、世界一有名な経済学者のアダム・スミスの「神の見えざる手」だ。このイデオロギー、つまり新しい現代の宗教こそが経済学だ。」

「一般の人の経済学者の話を聞くと、こう思うに違いない。
「経済学は複雑で退屈すぎる。専門家に任せておいた方が良い」
だが実のところ、本物の専門家など存在しないし、経済のような大切なことを経済学者に任せておいてはいけないのだ。

経済についての決定は、世の中の些細なことから重大な事まで、全てに影響する。経済学者に任せるのは、中世の人が自分の命運を神学者や教会や異端審問官に任せていたのと同じだ。つまり、最悪のやり方なのだ。」

「確かに経済学者はすっきりとした数理モデルやたくさんのデータを使う。しかし、だからといって彼らが本物の科学者だということにはならない。少なくとも、物理学と同じ意味での科学ではない。

物理学では、予測が正しかったかどうかを自然界が公平に判断してくれる。経済学はそうした公平な判断の対象にならない。科学実験と違って、実験室で経済状況を完全にコントロールして正当性を証明することはできないからだ。」

 

■経済の意思決定過程に、政治の制度を挿入せよ

バルファキスは過去2,3百年の間に世界で起きこととは、資本主義が民主主義の内臓を食い荒らした、ということだ、言う。

「民主政治のプロセスを政治の領域内に 限定することができてからでした。これにより 経済の領域 ― いわば 営利企業の世界が民主主義とは無関係になりました。

経済界が 政界に侵食し 政治を乗っ取り始めたのです。経済界による政治の 乗っ取りや共食いが あまりに行きすぎて 経済そのものが蝕まれ 経済危機が起きているのです。」

この惨状を打破するには、経済の意思決定過程に、政治の発想を挿入するしかない。政治の世界で「一人一票」制があたりまえ。富者も貧者も一票。経済にもこの発想を取り入れよう(=「経済の民主化」)。

まず会社について。

現在株主総会では保有株数に応じて議決権が与えられる。そのため裕福な者ほど多くの株を所有でき、より多くの議決権を行使して、みずからの利益を追求できる。となると一般的に、株を大量に保有する個人か機関の配当を最大化することが企業の戦略になる。しかし政治の世界では一人一株だけであり、議決権もひとりひとつだけ。

だから、経済にもこの発想を取り入れよう(=「経済の民主化」)。一人一株一票を徹底する、当たり前にする。すると所得の不平等を劇的に是正するだけではない。平等な権限を行使することで、短期の個人的利益ではなく、長期の集団的利益につながる意思決定が下せるようになるに違いない。

社会全体でもそうしよう。

具体的には政治の世界は一人一票だ、これにならい、社会の経済世界全体で一人一株一票にしてはどうか。市民全員が所属する国の総資本のシェアホルダー(株主)になる、そういう制度設計の国を作ってはどうだろう。

バルファキスの次の全世界ベース・ベストセラー『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』でこういう提案をしている。

・パーキャップ口座(生まれた時に国が全市民に対して開設する、中央銀行の口座/積立、相続、配当が入金される)

・積立:市民が働いて得るお金(基本給は全社員が全く同じ ボーナスは1人1票の同僚の投票で決定)
・相続:全市民に対する信託資金(国から全市民に、生まれた時点で同額が振り込まれる)
・配当:社会資本のリターン(全市民共通の権利 )

 


書評|クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界 https://society-zero.com/chienotane/archives/9582


 

■読むときっと満足する読者プロファイル

・評判のベストセラー経済本を持っておきたい人
・常識と言われる従来経済学に違和感を抱いている人
・世界に格差がある理由を知りたい人
・商品の価値が決まる仕組みについて「需要と供給以外の説明を聞きたい大学生
・労働が生む価値や現代の社会構造について考えたい社会人
・市場価値と経験価値の違いについて知りたい社会人

 

■まとめ

なにしろ、この『父が娘に語る経済』は「筆の赴くままにまかせた。あらかじめ決められた目次も手引きも計画もなかった。たまに泳いだり、ボートに乗ったり、パートナーのダナエへと出かけたりしながら、9日間でこの本を書き上げた」本ゆえ、それなりの粗さはある。裏表紙の「読み終えた瞬間、世界が180度変わって見える」の宣伝文句はやや眉唾。

しかし「経済を身近なものとして感じる助け」になる本が目指されていて、その目論見はある程度成功している。25ヵ国で翻訳出版されて世界的なベストセラーになったことがそれを裏付けているだろう。そして従来の経済学通説と正反対な経済論を展開している点。なにより、資本主義論にまったく新たな視野を提供する本であり、この点で、おすすめ。ちなみに『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』と補完関係にある本と考えていいだろう。