文化的表現ゲームとしての「事そのもの」

哲学者の西研は、ヘーゲルの「事そのもの」論は、基本的に「文化的な表現の分野」であると言う。そしてその上で、この論については、「『表現できるのは一部の豊かな人間だけだ』というような批判もあるかもしれない」と言う。※I):「文化的な表現の営みのなかで、人々は作品を媒介にして相互に交流しあう。そこでは、自分の内的な個人的なものがさまざまな他の人々とつながり共振しうる、という独特の可能性がある。そうした相互の営みのなかで、人々はなにかしら「真実なもの」への信頼と、社会を生きる人々への「つながり」とを感じ取ることができる、というのがヘーゲルの脳裏にあったものだと思う。」(『完全解読ヘーゲル『精神現象学』』第3章・C 自体的かつ対自的に(絶対的に)実在的だと自覚している個体性 (講談社選書メチエ、二〇〇七年))

確かに、先述したように、今日において「事そのもの」を探求し自らを表現できる人たち、いい換えれば「現われの空間」を十分に持ち得ている人は、やはり一部に限られている。

■参考文献
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』 竹田 青嗣、西 研 二〇〇七年

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I. :「文化的な表現の営みのなかで、人々は作品を媒介にして相互に交流しあう。そこでは、自分の内的な個人的なものがさまざまな他の人々とつながり共振しうる、という独特の可能性がある。そうした相互の営みのなかで、人々はなにかしら「真実なもの」への信頼と、社会を生きる人々への「つながり」とを感じ取ることができる、というのがヘーゲルの脳裏にあったものだと思う。」(『完全解読ヘーゲル『精神現象学』』第3章・C 自体的かつ対自的に(絶対的に)実在的だと自覚している個体性 (講談社選書メチエ、二〇〇七年))