「自由」の条件としての「欲望の中心点」

欲望がある程度の中心点を持って初めて、わたしたちは「自由」の感度を手にすることができる。

「選択・決定可能性の感度」は、その時初めて訪れるのだ。※I):加藤典洋は次のようにいう。「人が自由を感じるのは、欲望をかなえることによってでもあるが、またときに、欲望をかなえることから自由であることによってでもある」(『人類が永遠に続くのではないとしたら』 第十章 (新潮社、二〇一四年))。
人は「自由」を「欲望を叶えること」としてイメージしやすいが、必ずしもそうではないというこの指摘はきわめて興味深い。本書では、自由の本質を「諸規定性における選択・決定可能性の感度」と表した。それはつまり、欲望を叶えないという「選択・決定」の可能性の余地もあるということだ。
しかしいずれにせよ、「自由」にとって「欲望」それ自体のある程度の自覚は必要条件というべきだろう。

ではそれは、いったいどうすれば可能なのだろう?

■参考文献
『人類が永遠に続くのではないとしたら』  加藤 典洋 二〇一四年


★この記事はiCardbook、自由の相互承認 —— 人間社会を「希望」に紡ぐ —— (下)未来構築の実践理論』を構成している「知識カード」の一枚です。

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I. :加藤典洋は次のようにいう。「人が自由を感じるのは、欲望をかなえることによってでもあるが、またときに、欲望をかなえることから自由であることによってでもある」(『人類が永遠に続くのではないとしたら』 第十章 (新潮社、二〇一四年))。
人は「自由」を「欲望を叶えること」としてイメージしやすいが、必ずしもそうではないというこの指摘はきわめて興味深い。本書では、自由の本質を「諸規定性における選択・決定可能性の感度」と表した。それはつまり、欲望を叶えないという「選択・決定」の可能性の余地もあるということだ。
しかしいずれにせよ、「自由」にとって「欲望」それ自体のある程度の自覚は必要条件というべきだろう。